与え、そして、ゆだねてくださる神

メッセージ

<テモテへの手紙 第二 1章6~14節>
牧師:砂山 智 師

開会聖句

自分に委ねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって守りなさい。

<テモテへの手紙 第二 1章14節>

メッセージ内容


<序論>  
・テモテへの二通の手紙とテトスへの手紙は「牧会書簡」と呼ばれています。特に、今日のテキストである「Ⅱテモテ」は、パウロの最後の手紙です。パウロとテモテの出会いは、「使徒の働き」16章に記されています。テモテという人は、父がギリシヤ人、人種的には混血(ハーフ)で、純粋なユダヤ人ではありませんでした。また、パウロと違って気の弱いところがあり、身体(胃)も弱かったようです。しかし(だから?)、パウロは、この若い弟子のことをいつも気にかけ、励まし続けたのです。

<本論>
1、力と愛と慎みの霊
パウロは、ローマの獄中でこの手紙を書いていると思われます(Ⅱテモ1:8、2:9)。「使徒の働き」は、ローマで軟禁状態にあるパウロの姿で終わっていますが、伝承では、パウロは、その後、一旦釈放され、スペインなどへ伝道旅行に出かけた後、再び捕えられ、最終的に皇帝ネロの手によって殉教したとされています。一度目の投獄の際には、住む家も与えられ、比較的自由に生活できたようですが、二度目、つまり、今回の投獄では事情が違いました。

『犯罪者のようにつながれています』(同2:9)、

パウロ自身も処刑される時が近いということを、感じ取っていたようです。

『神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました』(同1:7)。

私も、このみことばで何度も励まされてきました。
『力(デュナミス)』。イエスさま、天に上げられる前に、弟子たちに次のように言われました。

『しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」』(使徒1:8)。

この「力」は、それまで恐れに支配され、逃げ回っていた弟子たちを、まったく造り変えてしまうような力です。それは、聖霊が下った時に天から与えられる力です。

そして、『愛(アガペー)』。これも、もちろん人間の愛ではなく、賜物として与えられる神さまの愛のことです。

『愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです』(Ⅰヨハ4:18)。

愛と恐れとは、相容れない関係にあるということです。「裁き」や「罰」を強調し、人々を悔い改めに導こうとするのは、本物の福音ではないということでしょう。全き愛は恐れを締め出すのです。
そして、最後は『慎み(ソフロニスモス)』の霊です。この箇所で「慎み」と訳されているギリシヤ語には、元々、「自制心」「節制」「思慮分別」というような意味があります。ある方は、この賜物のことを、「信仰の健全さ」と定義しておられました。このことばは、「牧会書簡」に特徴的なことばです。

2、復活のキリスト
そして、パウロは、その後で、

『ですから、~ むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください』(同1:8)

とテモテに勧めています。ただ、この苦しみは、苦しみだけで終わるものではありませんでした。それは、イエスさまが、死を滅ぼし、私たちに、いのちと不滅を明らかに示してくださったからです(同1:10)。
そして、

『この福音のために、私は宣教者、使徒、また教師として任命されました』(同1:11)

と、パウロは言っています。
確かに、パウロの原点は、あのダマスコ途上で復活のキリストと出会ったという、その一点にありました(使徒9章)。「使徒の働き」で描かれている彼の姿は、愚直に、復活のキリストと出会ったという体験を何度も証しする姿です。パウロが、

『私はすべてを損と思っています』(ピリピ3:8)

とまで言って、どうしても伝えたかったことは、死をも滅ぼし、いのちと不滅とを明らかに示してくださった、この復活のキリストでした。

<結論> 

『そのために、私はこのような苦しみに会っています。しかし、それを恥とは思っていません。なぜなら、私は自分が信じてきた方をよく知っており、また、その方は私がお任せしたものを、かの日まで守ることがおできになると確信しているからです』(同1:12)。

パウロは今、死を目前にして、犯罪者のようにつながれています。しかし、彼は、そのことを恥とは思っていない、と述べています。このことばは、決してパウロのやせ我慢や負け惜しみではないと思います。それは、彼が、自分が信じてきた方、つまりイエスさまのことをよく知っており、その方が、自分のお任せしたもの(別訳:私に任されたもの)を必ず守ることができると確信していたからです。

そして、今日のテキストの最後は、次のようなことばで締めくくられています。

『あなたは、キリスト・イエスにある信仰と愛のうちに、私から聞いた健全なことばを手本にしなさい。自分に委ねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって守りなさい』(同1:13,14)。

パウロが言っているのは、神が与えてくださった聖霊によって、これまた、神が一人一人に委ねてくださった良いものを守りなさいということです。聖書が言うところの「福音(良い知らせ)」というのは、道徳や倫理の教えのようなものではありません。ある牧師が宗教の時間に「宗教とはいったい何だと思いますか」と質問したところ、一人の少年が「宗教とは禁じられていることすべてのことです」と答えたそうです。お行儀よく、模範的で、禁止条項をよく守ることが、宗教であると。しかし、スイスの精神科医でキリスト者であったポール・トゥルニエは、「宗教的であるということをこんなふうに理解しているとしたら、それは聖書の精神から遠く離れてしまうことになる」と主張しています。確かに、聖書に登場する人物には、嘘つき、裏切り者、姦淫を犯した者、遊女などがいますし、イエスさまに惹かれ、親近感を覚えたのは、むしろ、そのような人たちでした。そして、トゥルニエは、さらに次のように言います。「道徳主義とは、自分自身を追求することを意味し、宗教とは、神とその恩恵を情熱的に追求することである」。

今週も、「与え、そして、委ねてくださる神」を情熱的に追求し続けるような信仰生活を送りたい、と切に願います。

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新聖歌

開会祈祷後:146番、メッセージ後:199番

聖書交読

詩篇 130篇1~8節

2018年教会行事

7月4日(水) オリーブいきいき百歳体操(10時~11時)

#50-2613

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