神の支配と人の支配

メッセージ

<申命記 17章14~20節>
牧師:砂山 智 師

開会聖句

人はみな、上からの権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。

<ローマ人への手紙 13章1節>

メッセージ内容


<序論>  
・モーセ五書の中で、王について言及されているのは、「申命記」17章だけです。

<本論>
1、イスラエルの王の条件
この箇所で、モーセは、イスラエルの王として選ばれる者の条件を示しています。
その第一の条件は、神が選ばれる者でなければならないということ、そして、同胞の中から選ばれなければならないということです(申17:15)。

そして、第二の条件は、

『決して自分のために馬を増やしてはならない』(同17:16)。

つまり、軍事力に頼るなということでしょう。今、憲法改正に向けた議論が盛んになってきています。皆さんの中にも、様々な意見をお持ちの方がおられると思いますが、恐らく、この世界においては、どれほど強大な軍事力を手に入れたとしても、これで安心ということにはならないと思います。また、『馬を増やすために民をエジプトに戻らせてはならない』とも命じられています。

これは、軍事力、つまり、この世の力を頼りとするような世界に後戻りしてはならない、ということだと思います。『二度とこの道を戻ってはならない』。新約の時代に生きる私たちは、新しい契約の民として、古いくびきから解放された生き方をするようにと召されている者たちです。そのことを忘れてはならないと思います。

そして、第三の条件は、多くの妻や多くの金銀を持ってはならないということです(同17:17)。よく、「この人は、何のために、何を目的として、政治家になったのだろう?」と首を傾げるような政治家がいます。単に、自分の力を誇示し、人に命令するために。或は、社会的な地位や名誉を得るために。それとも、お金儲けのために。イエスさまは、弟子たちに、

『あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい』(マタイ20:26b~27)

と言われました。日本の政治家にも、そんな「志」を持った人に立ってほしいと願います。
そして、モーセは、このテキストの最後で、次のように締めくくっています。

『その王国の王座に就いたら、レビ人の祭司たちの前にある書から自分のために、このみおしえを巻物に書き写し、自分の手もとに置き、一生の間これを読まなければならない。それは、王が自分の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばと、これらの掟を守り行うことを学ぶためである。それは、王の心が自分の同胞の上に高ぶることのないようにするため、また命令から右にも左にも外れることがなく、彼とその子孫がイスラエルのうちで、長くその王国を治めることができるようにするためである』(申17:18~20)。

ただ、現実は、どうだったでしょうか?実際に、イスラエルの国に王が与えられるのは、この時代から500年ほど後のことになります。イスラエルの歴史はアブラハムから始まりますが、アブラハム・ヤコブ・イサクらは族長と呼ばれています。やがてイスラエルは、エジプトの地で一つの民族と呼べるほどに増え、そんな彼らを率いたのがモーセ・ヨシュアのような預言者でした。そして、ヨシュアが死んだ後、士師(さばきつかさ)の時代になります。ギデオン・サムソンなどが有名ですが、彼らは、言わば、一代限りの英雄であり、政治的・軍事的リーダーとして、様々な敵からイスラエルを守るために活躍します。ただ、それは、ある意味で、対処療法と言いますか、安定性を欠いた時代でもあったとも言えます。「士師記」の最後には、次のように記されています。

『そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた』(士21:25)。

そして、そのような状態の中、預言者サムエルが現れ、イスラエルに最初の王サウルが与えられます。サウルの後、あのダビデが王となり、ソロモン、分裂王国の時代へと歴史は進んでゆきます。このようなイスラエルの歴史を顧みる時、歴史の中でみこころを行われる主を思わされます。

<結論> 
今日の開会聖句は、新約聖書の「ローマ人への手紙」13章冒頭にあるみことばです。
『人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです』(ローマ13:1)。

私は10年前に神学校を卒業しましたが、卒業論文の題は、「ローマ書13章の釈義から見た平和の問題 -国家とキリスト者との関係の一考察-」というものでした。それは、ちょうどその頃、「日本国憲法の改正手続きに関する法律(国民投票法)」が可決され、憲法改正が現実味を帯びてきたからということもありましたが、私自身、以前から興味のある分野だったからです。その際に、参考にさせてもらったのが、宮田光雄という政治学者が書かれた「権威と服従 -近代日本におけるローマ書13章-」という本でした。

私の卒論の結論部分だけをご紹介させていただきます。
「パウロのローマ書13章の教えは、実はローマ書12章1節と2節の勧めを前提にしたものであり、それ以下に続くパウロの勧告も、いわば共通の括弧である次の言葉にくくられたものとして理解することができる。

『ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります』(ローマ12:1~2)。

12章1節の最後にある『ふさわしい(新改訳第二版では『霊的な』)』という言葉は、《理性的》とも訳すことができる。「礼拝」というのは神への《奉仕》を意味する。私たちの心と身体=全生活をあげてする理性的な神への奉仕、言い換えれば、神への服従の《日常化》、それが、現代に生きる私たちキリスト者の課題であると言えよう。また、2節の最初にある『この世と調子を合わせてはいけません』という言葉は、《この世と同化してはいけません》とも訳すことができる。つまり、キリスト者の国籍は天にある(ピリピ3:20)のであり、キリスト者は、この世に生きる者ではあっても、この世に属する者ではないのである。

さらに、『この世と調子を合わせてはいけません』という箇所で使われているギリシャ語の動詞が、現在形・中受動相・命令法・二人称・複数の形であるのに対して、13章1節の『人はみな~従うべきです』という箇所のギリシャ語の動詞は、現在形・受動相・命令法・三人称・単数の形となっていることも指摘しておきたい。パウロがあえて、13章において、三人称・単数に対する命令法を用いたのには、重大な意味があるのではないだろうか。

また、13章1~7節を挟んでいる前後の文脈が、「愛」についての教えであるという点も見逃してはならない。つまり、国家に対するキリスト者の姿勢も、神と人とに対する「愛」を基盤とするものでなければならないということである。したがって、もし国家が、神と人とに対する「愛」に反するような行為を強要してくるような場合には、私たちキリスト者は、決してそのような国家と調子を合わせることはできないのである。

以上のことから私は、ローマ書13章1~7節の教えを、国家権力に対する絶対的な服従を強いるようなものではなく、より一般的な、社会の平和を実現するための勧めとして受け止めるべきであると考える。

また、私たちキリスト者は、積極的に隣人を愛し、この地上において「キリストの平和」を造り出す者として生きる義務を負っているのであり、悪魔的な国家に対しても、革命的(暴力的)な手段に訴えて抵抗するということは認められておらず、愛の力と親切な行為を通してなされなければならないという結論に達した」。

改めて言うまでもないことですが、どれほど絶大な権力を持つ王といえども、神さまの下にあっては、私たちと同じ一人の人間です。そして、私たちの本当の国籍はこの地上にではなく、天にあると、聖書は言っています。今週も、「キリストの平和」を造り出す者として、歩みたいものです。

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新聖歌

開会祈祷後:343番、メッセージ後:364番

聖書交読

詩篇 126篇1~6節

2018年教会行事

6月13日(水) オリーブいきいき百歳体操(10時~11時)
6月17日(日)特別讃美礼拝 (Maki & Lily)

#50-2610

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