メッセージ
<申命記 3章23~29節>
砂山 智 師
開会聖句
何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。
<ヨハネの手紙 第一 5章14節>
メッセージ内容
<序論>
・モーセに率いられたイスラエルの民は、40年間、荒野を彷徨うことになります。その間、カレブとヨシュア以外の第一世代は死に絶え、第二世代に代わっていました。「申命記」は、今、まさに約束の地カナンに入らんとする、それらの人々に対するモーセの「遺言説教」と言えます。それは、モーセとイスラエルの民の過去の歩みの回顧であり、これから未来を担ってゆくことになる世代への提言でもあります。モーセはこの時120歳。やがて彼も、ピスガの頂から、はるかカナンの地を仰ぎ見つつ、主の命令によって死ぬことになるのです(申命34:5)。
<本論>
1、主に懇願して祈る
『「神、主よ。あなたは、あなたの偉大さとあなたの力強い御手を、このしもべに示し始められました。あなたのわざ、あなたの力あるわざのようなことができる神が、天あるいは地にいるでしょうか。どうか私が渡って行って、ヨルダン川の向こう側にある良い地、あの良い山地、またレバノンを見られるようにしてください。」』(申命3:24、25)。
モーセがイスラエルの民を率いて荒野を彷徨った40年というのは、苦労、苦労の連続でした。外には強力な敵、そして、内には『うなじを固くする(こわい)民』。そんな彼らを、モーセは、超人的な忍耐をもって導き、今、まさに、夢にまで見た地カナンを目前にしている。ですから、モーセがこのように神に懇願したのも、当然のことであったと思います。しかし、神さまは、その願いを許されませんでした。
『しかし主はあなたがたのゆえに私に激しく怒り、私の願いを聞き入れてくださらなかった。主は私に言われた。「もう十分だ。このことについて二度とわたしに語ってはならない。』(同3:26)。
神さまは、モーセの願いを、門前払いのようにはねつけておられます。それだけでなく、もう二度と祈るなと。祈ることさえも禁じられるとは・・・。もう、絶句する以外にありません。
神さまが、これほどまでに厳しく、モーセの願いを拒否された原因は、民数記20章の、いわゆる「メリバの水事件」にあったとされています。
『モーセという人は、地の上のだれにもまさって柔和(謙遜)であった』(民数12:3)
とありますが、そんなモーセが、たった一度の失敗によって、約束の地カナンに入ることができなくなってしまったのです。
ただ、神さまのことばには続きがありました。
『ピスガの頂に登り、目を上げて西、北、南、東を見よ。あなたのその目でよく見よ。あなたがこのヨルダン川を渡ることがないからだ。ヨシュアに命じ、彼を力づけ、彼を励ませ。彼がこの民の先頭に立って渡って行き、あなたが見るあの地を彼らに受け継がせるからだ。」』(申命3:27、28)。
神さまは、決して祈りを拒絶されるだけの方ではありません。モーセに、この地上での最後の使命、なすべきことを示しておられるんですね。それは、彼の本意ではなかったかもしれませんが、自分の後継者であるヨシュアを力づけ、励まし、約束の地カナンを受け継がせるという、本当に大切な使命でした。このことは、神さまのモーセに対する大きな憐みであったのではないかな、と私は思っています。
2、神のみこころ知る
皆さんも、よく祈られると思います。それは、自分やあの人の病気を癒してほしいとか、今、目の前にある問題を取り除いてほしいとか、様々でしょう。
ただ、もし、私たちの祈りが、自分の願いをかなえてほしいということが第一と言いますか、それが全てとなってしまっては、何か違うような気もします。神さまは、「アラジンと魔法のランプ」に出てくる魔神のような方ではありませんから。
そして、もう一つ大切なこと、それは、私たちはモーセとは違うということです。モーセのように、祈ってすぐにその答えが神さまから返って来るということは、ほとんどないのではと思います。私たちは、後になってみて、あの時、みこころはそうだったのかな、と思わされるということが、ほとんどではないでしょうか。
この、「みこころを知る」ということについて、以前、興味深い話を読んだことがあります。それは、現在、神奈川県にある大野キリスト教会で宣教牧師をしておられる中澤啓介先生が書かれた以下のような一文です。
<みこころ症候群からの解放>
「もう数年前のことで、シンガポールで経験したことです。礼拝後に一人の若い女性が相談に来られました。「自分は今転職を考えています。自分のしたい仕事が香港のある会社にあるのだけれど、それが神さまのみこころかどうか分からないで悩んでいます。どうしたら神さまのみこころは分かるのでしょうか」と質問されました。 私は、一瞬返答に詰まってしまいました。そして、「あなた自身は行きたいと思っているんですか?」と逆にお尋ねしました。すると、「はい」という答えが返ってきました。「じゃあ香港に行って、状況を調べてみたらいかがでしょう」と申し上げました。すると、「先生、そんなに簡単に決めていいんでしょうか?」という返事が返ってきました。そこで私は、「それでは、もっと複雑な、どんな方法で判断するようにお勧めしたら、納得してくださるのでしょうか?」 と再びお尋ねしました。
そのときまで彼女は、神さまのみこころであれば、祈ればきっと神様から何らかの示しがあるに違いない、そう思っていたようです。みことばが与えられるということか、幻や夢を見るということか、何か別のことか分からないけれど、とにかく何か特別な啓示か、宗教体験があるはずだと期待していたのです。むろん、そういう経験をもっている人のことを私もたくさん知っています。けれども、そうではない仕方で導かれる人々もたくさんいます。率直に言えば、そういう特別な体験をした人たちは多くはないと思います。
使徒の働きの記録を見ても、そういう特殊な宗教体験は、パウロにとっても、ダマスコ途上でイエスにお会いした経験(使徒 9:4-9)とか、ヨーロッパの人々の叫びを幻の中で聞いた経験(使徒 16:9-10)ぐらいでしょう。あるいはペテロにとっては、汚れた食べ物を食べるようにと幻を示された経験(使徒 10:11-16)ぐらいでしょう。私自身も、そういう経験はほとんどありません。しかし、よく祈ってからですが、自分が一番良いと思う道を選んできました。そのようにしていつも神さまのみこころを行ってきました。
そんな話をさせていただくと、彼女はほっと安心したような顔をされ、喜んで帰っていかれました。
それから一か月後、香港からメールをいただきました。そのメールには、あの時、香港に行ってみようと決心して本当によかった。香港では主がどれほどすばらしい道を彼女に備えてくださっていたか、お仕事のこと、信仰のこと、教会のことがたくさん書かれていました。」
<結論>
確かに、私たちには、どれだけ祈っても、神さまのみこころをはっきりと知るということは難しいかもしれません。しかし、中澤先生も書いておられるように、私たちが神さまのみこころを求めてよく祈ったならば、後の結果は神さまにお委ねして、自分が一番良いと思う道を選び、そして、一歩踏み出してゆくことが大切ではないかと思わされています。
イエスさまは、あの「山上の垂訓」の中で、次のように教えてくださいました。
『求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。あなたがたのうちのだれが、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。』(マタイ7:7~11)。
私たちの確信は、天におられる私たちの父は、自分の子どもに対して、彼が願った通りの答えではなかったとしても、必ず良いもの、最善のもので応えてくださる、ということです。この天のお父さんを信頼して、今週も歩んで行きたいものです。
新聖歌
開会祈祷後:7番、メッセージ後:137番
聖書交読
詩篇 110篇1~7節
2018年教会行事
5月16日(水) オリーブいきいき百歳体操(10時~11時)
6月17日(日)特別讃美礼拝 (Maki & Lily)
#50-2606
One comment to this article
mb-senri_web
on 2018年5月13日 at 2:24 PM -
本日のメッセージで砂山師が引用された、中澤啓介師(宗教法人日本バプテスト教会連合大野キリスト教会宣教牧師)のエピソードの原文が掲載されているホームページのリンクを設置させていただきました。
http://oono.kyokai.org/archives.html
移動先のページの「教育セミナー資料」の2番目にあります。@管理人