メッセージ
<ルカの福音書 15章11~24節>
砂山 智 師
開会聖句
すると、天から声がした。「あなたはわたしの愛する子。私はあなたを喜ぶ。」
<ルカの福音書 3章22節後半>
メッセージ内容
<序論>
・「ルカの福音書」15章には有名な三つのたとえが記されています。これらのたとえは、取税人や罪人たちが、イエスさまの話を聞こうとして集まって来たのを見て、パリサイ人や律法学者たちが
『この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている』(ルカ15:2)
と文句を言ったことに対して語られたものです。特に、今日の話は「放蕩息子のたとえ」として知られています。ただ、イエスさまがおっしゃりたかったことというのは、息子のことというよりも、父(神さま)はどのようなお方なのかということであったと思います。
<本論>
1、息子と呼ばれる資格
『弟のほうが父に、『お父さん、財産のうち私がいただく分を下さい』と言った。それで、父は財産を二人に分けてやった』(同15:12)。
当時のパレスチナの文化・伝統では、この弟息子の願いというのは、とても考えられないような、ありえない願いでした。彼は、財産の分け前だけでなく、それを好き勝手に使う権利まで求めています。これは、言い換えれば「お父さん、私は、あなたが死ぬまで待っていられません」という意味になるのです。しかし、父は何も言わずに、財産を二人に(つまり、兄にも)分けてやりました。
そして、
『それから何日もしないうちに、弟息子は、すべてのものをまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して、財産を湯水のように使ってしまった』(同15:13)。
彼は、父親との関係を一方的に断ち、分けてもらった財産全部を、自らの意思で、湯水のように使い切ってしまったんですね。そして、それは悲惨な結果を招くことになります・・・。
弟息子は何もかも失い、ついには、豚のエサで腹を満たしたいと思うほど落ちぶれてしまいました。そして、そのようになって初めて、我に返ったのです。
『しかし、彼は我に返って言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』(同15:17~19)。
この言葉は、人間的に考えれば当然のようにも思えます。「お前、あれほどのことをしたんやから、これでもずうずうしいわ!」ということですね。実際に、彼は、父と再会した時にも、次のように言っています。
『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。』(同15:21)。
さっきの19節、そして、この21節にも『息子と呼ばれる資格』という言葉が出てきます。この時、彼の心にひっかかっていたのは、この『息子と呼ばれる資格』ということだったんですね。つまり、自分には、もう、息子と呼ばれる資格はない、息子として愛される資格・価値はないということです。父は、きっと、こんな姿になってしまった自分を赦してくれるはずがない、と思い込んでいたんです。
確かに、この世では、「お前には愛されるだけの資格・価値があるのか?」「もし、それがあると言うのなら、さあ行って、今からそれを証明してこい!」という声が、いつも、私たちの心を支配しようとして攻撃を仕掛けてきます。この世の価値観というのは、突き詰めていけば、そのようなものだと思わされます。しかし、この父親は、そういうことは一切言いませんでした。ただ、遠くから弟息子を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼を抱き、口づけをして、言ったのです。
『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』(同15:22b~24a)。
この父親の姿こそ、イエスさまが教えてくださった父なる神さまの姿です。
父なる神さまの愛は、相手に対して、決して強制したり、無理強いをしたりはしません。拒否する自由をも与える愛です。ただ、じっと、あなたが帰って来ることを願い、ひたすら待ち続けておられます。それを、ある方は、「神聖な苦しみの源としての神聖な愛が持つ広さである」と書いておられました。私たち人間の愛は、ともすれば、「私はお前を愛している!愛している!」と言いながら、相手を自分の思う通りにコントロールしようとする、そんな愛になってしまやすいのではないでしょうか。しかし、父なる神さまの愛は違います。どこまでも、どこまでも、自分の子どもたちが自由であり、自由に愛することを願っておられるのです。
<結論>
本日の開会聖句は、「ルカの福音書」3章22節後半です。21節から、ご覧ください。
『さて、民がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマを受けられた。そして祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のような形をして、イエスの上に降って来られた。すると、天から声がした。「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」』(同3:21,22)。
ルカは、イエスさまがバプテスマ(洗礼)を受けられた時、天から声が聞こえたと記しています。そして、私たちの父なる神さまは、あなたにも、同じように語りかけておられます。『「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」』と。
この神さまの下に、今、帰りませんか。神さまは、大喜びで、あの放蕩息子の父親がそうであったように、あなたのことを迎えてくださると信じています。
特別讃美
女性会
新聖歌257番、342番
新聖歌
メッセージ後:176番
聖書交読
詩篇 103篇1~22節
2018年教会行事
5月9日(水) オリーブいきいき百歳体操(10時~11時)
6月17日(日)特別讃美礼拝 (Maki & Lily)
#50-2605
Comments are closed