メッセージ
<ルカの福音書 24章36~53節>
牧師:砂山 智 師
開会聖句
あなたがたはこれらのことの証人となります。
<ルカの福音書 24章48節>
メッセージ内容
序論)
「イースター(復活祭)」おめでとうございます!今日から、千里キリスト教会の牧師としてご奉仕させていただくこととなりました砂山智と申します。到らぬ者ではありますが、教会の皆様と共に、主のなさることに期待して歩みたいと願っています。何卒、よろしくお願いいたします。
本論)
1、新しい肉と骨
最初の36節にある
『これらのこと』
というのは、13節以降に記されている、エマオ途上で二人の弟子に復活のキリストが現れたということです。そして、その二人(クレオパ夫妻)は、エルサレムに引き返して、十一人の使徒たちと一緒に、自分たちが経験したことについて話していました。平行箇所のマルコの福音書16章12,13節には、次のようにあります。
『それから、彼らのうちの二人が徒歩で田舎に向かっていたとき、イエスは別の姿でご自分を現された。その二人も、ほかの人たちのところへ行って知らせたが、彼らはその話も信じなかった』。
弟子たちは皆、疑心暗鬼の状態にあったようです。そんな時、彼らの真ん中に、突然、復活のキリストが現れ、そして、言われました。
『「平安があなたがたにあるように」』(36節)。
※『平安があなたがたにあるように(シャローム・アレーへーム)』。この言葉は、当時、普通に交わされる挨拶の言葉でした。しかし、初代教会の人たちは、このイエスさまの言葉を、単なる挨拶としてではなく、イエスさまの十字架での死と復活によって与えられた平和のしるしとしての言葉と受けとめました。イエスさまの十字架での死と復活により、神と人、人と人との間にあった隔ての壁は打ち壊され、真の平和(シャローム)が実現され、私たちに与えられました。そして、その目に見えるしるしとして、初代教会の人たちは「平和の挨拶」を交わすようになったのです。
しかし、
『彼らはおびえて震え上がり、幽霊を見ているのだと思った』(37節)。
日本人なら、さしずめ「足はあるのかな?」と確認したかもしれません。そんな弟子たち
に対して、イエスさまは言われました。
『「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを抱くのですか。わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります。」』(38後半~39節)。
きっと、弟子たちは、恐る恐るイエスさまのからだにさわってみたり、近くに寄ってまじまじと眺めたりしたでしょう。それでも彼らは、
『喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっていたので』(41節)
、イエスさまは焼き魚まで召し上がられた(!?)と記されています。ご自分は幽霊のような存在ではなく、新しい肉と骨とを持って復活したということを証明してくださったのです。
2、過去の復活と未来の復活
聖書が証言している復活というのは、過去の歴史的な事実としての復活。つまり、イエス・キリストが今から2000年前に復活されたということが一つ。もう一つは未来における復活。つまり、私たちクリスチャンも、イエス・キリストと同じように復活することができるという、二つのことがあると思います。そして、それはどちらも、肉体を持った復活なのです。
「使徒の働き」17章には、あのパウロがギリシヤの都アテネで伝道する場面が描かれています。パウロは、キリストの復活を伝えようとして懸命に話すのですが、アテネの人たちの反応は、実に冷ややかなものでした。彼らは、
『死者の復活のことを聞くと、ある人たちはあざ笑ったが、ほかの人たちは、「そのことについては、もう一度聞くことにしよう」と言った』(使徒17章32節)
と記されています。アテネの人たちの考え方の根底にあったのは、ギリシヤ哲学と呼ばれるものです。それは、聖書の時代だけでなく、今に至るまで大きな影響力を残しています。ギリシヤ哲学では、肉体は悪(悪いもの)とされ、滅ぶべきものであり、それに対して、霊魂は善(善いもの)であり、永遠に存在するものと考えます(もちろん、ギリシヤ哲学全てがそうとは言えませんが)。しかし、今日の箇所で、イエス・キリストは、はっきりと言っておられます。自分は霊のような存在としてではなく、肉体(これは新しい肉体ということですが)を持って復活したと。つまり、聖書が言っているのは、肉体は悪で魂は善ということではないということです。
結論)
そして、信じる私たちに約束されている未来の復活ですが、これを、あえて例えるならば、「約束手形」のようなものと言えるかもしれません。それは、金額はきちんと書かれてはいるけれども、今はお金ではない。未来における約束であり、それで、今、何も買うことはできないということです。それと同じように、イエス・キリストが復活されたからといって、今の私たちの生死(生き死に)には関わってこない。だから、私たちは、まだ死の支配下にあるわけです。イエス・キリストが復活したということを何度聞かされたとしても、私たちは死んでゆきます。信じる者も、信じない者も、全く同じように思えます。教会に来て、クリスチャンになったら、病気は癒され、仕事や家庭は全てうまくゆくのか?残念ながらノーです。しかし、私たちは希望を失いません。それは、イエスさまが、
『世にあっては患難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました』(ヨハネの福音書16章33節後半)
と言われたからです。イエスさまは、私たち人間にとっての最大にして最後の敵である「死」をも滅ぼしてくださったのです。
そして、最後にお話ししておきたいこと、それは、復活というのは、単に未来のこととか、イースターの時にだけ語られるものではないということです。
「復活の信仰は、イースターの時期だけではない。クリスチャンがそれにより毎日生き、それにより最後に死ぬ信仰なのだ」(ウィリアム・バークレー)。
「ルカの福音書」の最後は、
『いつも宮にいて神をほめたたえていた』(53節)
ということばで締めくくられています。この弟子たちの姿こそ、復活の信仰に生きるクリスチャン、証人(あかしびと)の姿ではないでしょうか。
新聖歌
開会祈祷後:127番、メッセージ後:477番
特別讃美
フルート・オルガンの二重奏
・カンタータ 159 番「見よ。我らエルサレムに上る」から アリア:バッハ
・イタリア風アリア:テレマン
・G線上のアリア:バッハ
2018年教会行事
4月08日(日) 合同記念会(服部霊園 12時30分~13時)
4月11日(水) オリーブいきいき百歳体操スタート!(10時~11時)
6月17日(日)特別讃美礼拝 (Maki & Lily)
#50-2600
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