人に見捨てられた神の御子

メッセージ

<イザヤ書 53章1~6節>
徳本 篤 師

開会聖句

キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。

<テモテへの手紙 第一 2章6節>

メッセージ内容


序文)
クリスマスを目前にして浮かれた気分になりがちなこの頃ですが、今日はイザヤ53章前半部分をパウロの目線でを読んでみたいと思います。なぜならこの聖書箇所には、パウロが教会を迫害した理由と、後にキリスト者に回心した本当の理由が明らかにされていると思うからです。パウロは自分のことを「罪人のかしら」だと告白していますが、そのことからクリスマス本来のあり方について明らかにしたいと思います。

パウロの出身地はトルコ共和国中南部にあるタルソという地方都市でした。AD66年にローマ征服にタルソの住民が貢献したことでローマ皇帝は全住民にローマ市民権を授与しました。パウロの父もその時からローマ市民権がありました。パウロは故郷を離れてエルサレムに移り住み、当時最も著名な律法の教師ガマリエルのもとでユダヤの律法とパリサイ人の精神を学びました。ガマリエルは厳しい教師であるばかりでなく、温厚な人物でした。ペテロたちが宗教裁判を受けた時に彼は使徒たちを弁護しました。(使徒5:34)パウロがその恩師の教えに背いて過激な迫害者に変貌したのはなぜでしょうか。ローマ1:28-32で彼自身が罪のリストに「ねたみと殺意と争い・・・」を取り上げています。イエスとイエスの教えに従う同胞ユダヤ人に対する激しい「ねたみと殺意」が、その動機だったのではないでしょうか。

パウロの「ねたみと殺意」の背景には当時のユダヤ人社会の極度の伝統主義と、強い差別意識が考えられます。 ヨハネ1:46に書かれているように、エルサレム出身のユダヤ人ナタナエルは、イエスがガリラヤ地方の出であることを聞いた途端に、「ナザレから何の良いものが出るだろう。」と軽蔑する態度をあらわにしています。 パウロはユダヤの田舎どころか、ユダヤ国外に住む離散したユダヤ人の子で、異邦人の地方都市タルソの出身でした。

使徒26:14に、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ」。

イエスがパウロに言われた言葉が書かれています。とげのついた棒とは、パウロの心をを深く傷つけていた劣等感をあらわします。彼がどんなに優秀な学生であっても、人一倍熱心なパリサイ主義者であっても、エルサレム出身のユダヤ人は地方出身の彼を差別扱いしていたに違いありません。自分を見下すユダヤ人たちの関心を引くような手柄を立てて、自分の存在を認めさせたいという欲求の高まりは、恩師ガマリエルの教えに背いてでも、彼を過激な迫害者へと駆り立てたのではないでしょうか。イエスはパウロのその思いを読み取られ、理解を示してくださったのです。

本文) 
あらためて今日のイザヤ53:1-6を読んでみましょう。そこには人々が神の御子を見捨てた理由について預言されています。

3節の「彼を尊ばなかった」chashab

とは、計算に合わない。予想していたものと違う。ことをあらわします。さらにその理由についても明らかに書かれています。

第一、神の御子が育った環境が気に入らない。

2節の「育ち:alah」

とは、育った場所や環境のこと。

「若枝:yowneq」

とは、切株から芽を出したばかりの弱々しい枝のこと。

「根:sheresh」

とは、人々に踏まれて土を這うように醜く曲がった木の根のこと。
出身地がガリラヤのナザレという村だったことを理由に、エルサレムに住むユダヤ人たちは神の御子イエスに対する強い偏見による差別を受けられました。(ヨハネ1:46)

第二、神の御子の家族や生活ぶりが気に入らない。

2節の「見ばえ:mareh」

とは、人々に支持される風貌と表情のこと。
御子イエスが故郷のナザレに久しぶりに帰られたときに、

「この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。」(マルコ6:3)

と書かれているように人々の強い偏見による差別を受けられました。

第三、神の御子の教えや行動が気に入らない。

「さげすみ:bazah」

とは、あざ笑う。傍に居ることさえ忌み嫌うこと。
御子イエスが捕らえられ十字架にかけられた時、道を行く人々もその姿を見てイエスをののしり、祭司長や長老、律法学者たちも

「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから」

と言って、大勢の前でイエスをあざけり、ののしりました。(マタイ27:39‐44)

第四、神の御子の十字架刑を当然の成り行きだと思った。

4節の「私たちは思った:chashab」

とは、3節の尊ばなかったと同じことばで、計算した通り、予想した通りだったことをあらわします。

「神に打たれた:nakah」

とは、神のさばきによって処刑され殺されたことをあらわします。御子に対する自分たちの高慢な罪を神のさばきだと正当化してしまう人間の極めて悪意に満ちた考えが描かれています。

イザヤ53章(1-6)は神の御子の謙虚で従順なお姿と対象的な人の罪深さに対する驚きと悲しみの預言です。使徒9章(4-5)で、イエスはパウロに向かって言われました。

「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と尋ねると、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」

という答えがありました。
その後に、パウロがイエスについて理解したことが、ピリピ2:6-11に書かれています。

「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」

この内容は、イザヤ53章をパウロ自身が理解し、彼の言葉で書き直したようになっています。

適用と応答)
人の罪とは

御子イエスを信じないことです。(ヨハネ16:9)神の御子であるイエスのお姿を自分の目で真剣に見ようとしない高慢です。(ヨハネ9:39~41)

ですから、人にとって最大の不幸はイエスを知らないことであり、最大の幸せはイエスに知られていることです。
すでに罪赦された私たちですが、今日あらためて謙遜と従順な姿をして私たちの所に降って来られた神の御子を、王の王、主の主、と告白し、へりくだる思いで礼拝をささげましょう。

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新聖歌

開会祈祷後:80番、メッセージ前:102番、メッセージ後:89番

聖書交読

詩篇 23篇1~6節

お知らせ

★本日の礼拝後に聖歌隊の賛美練習を行います。(2階礼拝堂)
★クリスマス献金のご協力をお願いします。
★次週24日はクリスマス礼拝・祝会・燭火礼拝を行います。友人、知人、家族などを招待し、ともに喜びを分かち合いましょう。
★元旦礼拝及び年次総会など教会行事を下記のように行います。予定に加えてください。
★療養中およびご高齢の方々の平安と励ましのために祈りましょう。

2017年-2018年前半の主な教会行事
12月24日 クリスマス礼拝/祝会/燭火礼拝
1月1日(祝・月曜) 元旦礼拝 11時から
1月1日 新年聖会(石橋教会)15時から
1月14日 砂山師説教/昼食と交わり/運営委員会
1月21日 年次総会(礼拝後)

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