すべての母サラの生涯

メッセージ

<創世記 23章1~20節>
牧師:徳本 篤 師

開会聖句

天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」

<マタイの福音書 12章50節>

メッセージ内容


序文)
「わが子たち、親の言うこと聞かぬのに、親のすること真似しおる。」 このように、「子どもというものは、親が教えたいと思っている良いことには聞く耳を貸さないが、親がしている悪いことはすぐに真似してしまう。」という子育ての難しさを皮肉った話があります。しかし、その子もやがて大人になると、自分の子どもの子育てが如何に難しいものか思い知ることになるのです。
神はご自分が選ばれた民を創り出すため、最初にアブラハムとサラ夫婦をこの世から選び出されました。夢のようなこの計画が実現するためには、アブラハムとサラの心の一致と献身的な協力なしに、とても成し得ない非常に困難なものでした。神に助けられながら、ふたりは自分たちの役割を成し遂げました。
きょうは、それらのことを背景に、信仰の母サラの生涯を振り返ってみようと思います。サラとはどんな女性だったでしょうのか。私たちは彼女からどれほどの影響を受けているかを探っていきましょう。

本文)
サラという名前は、「王女」をあらわします。神の民の歴史はすべて彼女から始まったからです。
サラはアブラハムより10歳若くて、カルデアのウルの出身でした(創世記11:29-31)その場所は現在イラクの南部に位置し、当時は非常に高度な文明が発達した古代都市でした。そこでサラはアブラハムと結婚しておりましたが、実は彼女はアブラハムの腹違いの妹でもあったのです。(20:12)
サラがアブラハムとともにウルからハランに向かって旅立ったとき、彼女は65歳になっていました。飢饉に見舞われ、一時的にエジプトに避難したとき、彼女がアブラハムの妻であることをエジプト人が知ったら、当時の習慣からエジプト人が彼を殺すのではと恐れたアブラハムは、サラのことを妹だと偽っていました。神の介入によってサラは無事に保護されましたが、サラのことを妹だと偽ったことについて、アブラハムは異教徒の統治者から激しい非難を受けました。
サラが75歳になったときに自分には子どもが産めないと考えて、自分の代わりに女奴隷のハガルを娶るように夫アブラハムを説得しました。サラはハガルが産んだ子どもを、自分の子とし、アブラハムの後継者にと考えていたようです。ハガルはアブラハムの子どもを身ごもったことが分かると、自分の女主人に対して横柄になりました。そのことでサラは彼女に厳しい扱いをするようになりました。余りの辛さからハガルはサラの許から逃げ出しますが、神の特別な慰めによって彼女は再び女主人の許に戻って、イシュマエルを生みました。
サラがおよそ90歳のとき、神はアブラハムに仰せられました。「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラ(王女)となるからだ。わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。」そして、その1年後に、約束された通りにイサクを生みました。
数年後に行われた、イサクの離乳を祝う大きな祭りの日に、サラはイシュマエルがイサクをあざ笑っていることをに激怒し、ハガルとイシュマエル(21章)を自分たちの家から追放するようアブラハムに強く要求しました。
サラは127歳になったときにヘブロンで死に、マクペラの洞穴に葬られました。アブラハムはその土地を自分たち一族の墓地とするために、法外な価格で購入しました(23:1-2)。

適用)
さて、信仰の母としてのサラについて理解を深めるために、第一ペテロ3:3~6に注目してみましょう。

「あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。むかし神に望みを置いた敬虔な婦人たちも、このように自分を飾って、夫に従ったのです。たとえばサラも、アブラハムを主と呼んで彼に従いました。あなたがたも、どんなことをも恐れないで善を行なえば、サラの子となるのです。」(1ペテロ3:3~6)

サラが実際にアブラハムのことを主と呼んだのは創世記のどの場面だったでしょうか。

「それでサラは心の中で笑ってこう言った。『老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。』」(創世記18:12)

がその引用個所に指定されていますが、サラはアブラハムのことをヘブル語でアドウンと呼んでいることがわかります。それには次のような意味があります。
   ●人に対する敬意の呼称:アドウン(夫、祭司、指導者、支配人、監督)
  ●神に対する敬意の呼称:アドナイ(わが主)
サラのうちに宿っていた敬虔な信仰者としての生き方は、どんなに苦しむことがあっても、心の中でいつも天地創造者なる神を主としてあがめ、夫とともに希望を持ち続けることを考えました。
そのサラのうちに宿っていた純粋で敬虔な信仰は、主を恐れるイスラエル人たちによって代々受け継がれて来たものです。ペテロは手紙の中で、信者の夫をもつ妻たちだけでなく、信者でない夫をもつ妻たちにも、サラと同じ信仰が宿っていることをもう一度確かめるように訴えているのです。

応答)
パウロはテモテに向かって

「私はあなたの純粋な信仰を思い起こしています。そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています。」(Ⅱテモテ1:5)

と語っています。
ここでは、祖母ロイスと母ユニケのうちに宿った純粋な信仰が、祖母と母とを通じてテモテのうちにも宿っていることが確認されたことを語っています。 「宿る(エノイケオー)」とは、その人のうちに永久に住んで影響を与え続ける力をあらわします。
例えば、

「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」(ローマ8:11)

 
神はサラのうちに敬虔な信仰者としてのたましいを宿らせられました。サラはすべての信仰の母である存在となりました。アブラハムだけではなく、サラが彼とともにいたからこそ、現在のイスラエルが存在し、イエス・キリストが存在し、弟子たちが存在し、教会が存在し、我々が存在するのです。

聖書のことば
①「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(Ⅱコリント6:16)
②「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、」(コロサイ3:16) 
③「あなたにゆだねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって、守りなさい。」(Ⅱテモテ1:14)
私たちの神を心の中でわが主としてあがめ、きょうも主に向って讃美と感謝をささげましょう。

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新聖歌

開会祈祷後:137番、メッセージ前:201番、メッセージ後:353番

聖書交読

詩篇 128篇1~6節

お知らせ

★本日礼拝後に三月度の聖餐式を行います。
★今週8日(水)に、おしゃべりティータイムを行います。
★先週26日に行われた石賀満牧師按手礼は教団内外から大勢の出席者がありました。石賀師のお働きが祝福されるよう祈りましょう。

2017年度前半の主な教会行事
4月16日(日)  イースター礼拝
4月23日(日)  合同記念会
4月30日(日)  北部地区講壇交換(藤野師来会)

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