全世界と真のいのち

メッセージ

<マルコの福音書 8章22~38節>
牧師:徳本 篤 師

開会聖句

人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。

<マタイの福音書 16章26節>

メッセージ内容


序文)
キリストは世界で唯おひとりであることは皆が知っていることです。ところで旧約聖書には、二つのキリスト像が描かれていることはご存知でしょうか。二つのキリスト像とは、キリストが二人おられるという意味ではなく、苦難のキリストと、栄光のキリストのことです。旧約聖書のイザヤ書にキリストのついての預言が書かれています。イザヤ11章にはキリストが周辺諸国の民族を圧倒的な強さで制覇され、イスラエルに勝利と栄光をもたす王の姿が描かれています。さらに、イザヤ53章には、貧しい生い立ちで、人に見捨てられ、多くの人の罪を身代わりに背負って殺される神の子羊となられるしもべの姿が描かれています。現代でもユダヤ人は栄光のキリストを待ち望んでいます。イザヤ53章はキリストのことではなく、自分たちイスラエルの苦難を描いているのだと主張し、新約聖書の記録とイエス様がキリストとして来られたことを拒絶しています。

今日の聖書に登場するペテロのキリストに対する見方も最初のうちは他のユダヤ人たちと同じでした。のちになってペテロはそのことに気づいて、Ⅰペテロ1:10~11では、

「この救いについては、あなたがたに対する恵みについて預言した預言者たちも、熱心に尋ね、細かく調べました。 彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。」

と告白しているように、イエス様に二つの預言が実現したことを認めています。このことを前提にして、今日の聖書個所を読んでいきますと、ペテロとイエス様が何を議論しておられるか。なぜイエス様がペテロの言ったことを叱られたのかがわかってきます。

本文)
マルコ8章29節で、イエス様から「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」と尋ねられたとき、ペテロは「あなたは、キリストです。」と答え、とても立派な信仰の告白をしました。しかし、その時のペテロの旧訳聖書の預言の理解はまだ不十分なものでした。ペテロの信仰告白は立派でしたが、当時多くのユダヤ人が栄光のキリストを待ち望んでいたように、彼も同じ考えでした。キリストの栄光の部分だけに注目し、その預言のことばが実現する日を熱心に待ち焦がれていたのです。それが彼の「キリスト像」になっていました。
ペテロが信仰告白をしたあとで、イエス様が今後ご自分が苦難を受けられるという話を始められた途端、彼は混乱し、心が動揺してしまいました。それは彼が告白したキリストのイメージとは遠くかけ離れたもので、とても受け入れ難いことでした。このことでイエス様とペテロとの間に、キリストに対する理解の違いが明らかにされたのです。それはペテロが期待していたこととは違っていました。イエス様の弟子であることが格好悪いと思いました。彼はつまづきを感じたのです。

実は、ペテロの心の中にそのように偏った期待を抱かせて、自分たちの好ましいキリスト像を作り上げさせていたのは、神ではなく、サタンだったのです。イエス様はそれがサタンの巧みな誘惑であることを見抜いておられました。それでペテロに、その過ちを気づかせるために、「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」という厳しいことばで叱られたのです。
ペテロは、まさか自分がサタンの巧みな誘惑のターゲットにされているとは、思いもしなかったことですから、ペテロ自身が一番驚いたことでしょう。聖書の預言のことば通りのキリストのお姿を「恥じる」ようなら、その心がサタンに狙われる、ということを私たちも知っておく必要があります。

38節の、「恥じる」とは、エピ(人前で)+アイスキュウノー(自分の立場や格好を損なう、自分の名誉や面目を失う、自分の恥を覆い隠す)との合成語になっています。 なぜ「恥じる」ことがペテロにとって問題になるのでしょうか。「恥じる」という行為は自己評価の基準が他者の同意に依存していることをあらわします。一旦、恥じる感覚を身に覚えると、私たちはいつの間にか自分の本当の考えや本心を隠すようになります。そのことから、人との接触が苦痛に感じるようになってしまうのです。確かに周囲に同調することで、一時的にその場での孤立を免れるかもしれませんが、それは同時に、周囲に迎合する自分の性格の弱さや生き方を責める癖も身に着いてしまいます。 「恥じる」心の奥深いところに潜んでいる、根源的な原因は、人に対する不信感です。結局、誰に対しても、ありのままに心を開いて見せることができない、本気で人が信頼できない孤独な状態なのです。

適用)
今日、あなたの心の中にも、ペテロと同じ「恥じる」ような思いが宿っていると感じるなら、その不信感と孤独から解放されて、平安と自由な生き方を求めてください。それは、あなたの人生が変わり、キリストとの関わり方が変わる良い機会です。 その方法は、自分の意思でキリストに本気で従う道を選ぶことです。キリストは私たちにとって道であり、真理であり、いのちなのです。キリストを選ぶことは、全世界を手に入れることよりも、はるかに価値のある選択です。 あなたが、本気でキリストを選ぶなら、キリストもあなたを恥じることなく、喜んで受け入れると約束しておられます。しかし、あくまでもキリストに従うことを恥じるつもりなら、キリストは、あなたから遠くへ離れて行かれます。あなたの本心はどうなのでしょうか、あなたの意思で今日はっきり決めましましょう。

応答)

ヨハネ第一4:18に「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。」

と書かれている通り、キリストは、あなたは自由にします。なぜなら、キリストに喜ばれ、愛されている者にとって、恥じるべきものは何もないのです。恥じる心はすでに過去のものとなりました。それは遠くに捨て去られました。あなたが向かう先には、十字架の上で苦難を乗り越えて栄光を受けられたキリストが待っておられるのです。そのお方こそ、あなたの主キリストです。

メッセージ内容のダウンロード(PDF17KB)

新聖歌

開会祈祷後:222番、メッセージ後:358番

特別讃美

 N.T姉(オルガン演奏)
「み神は城なり」M・ルター作曲
「主の祈り」 A・マロッテ作曲
「輝く姿は」 F・ハイドン作曲

お知らせ

★本日の讃美礼拝の特別讃美はN.T姉によるオルガン演奏です。
★3月1日リーガロイヤルホテルにおいて大阪レディーズランチョンが行われます。
★本日午後3時から河内長野聖書教会において石賀満師の按手礼式が行われます。司式は大山師、説教は徳本師が担当されます。
★Y.K姉はこの4月より福音聖書神学校の教会伝道者課程に入学されることになりました。

2017年度前半の主な教会行事
4月16日(日)  イースター礼拝
4月23日(日)  合同記念会
4月30日(日)  北部地区講壇交換(藤野師来会)

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