メッセージ
<マルコの福音書 8章11~21節>
牧師:徳本 篤 師
開会聖句
あなたは、自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。
<ヨハネの黙示録 3章17節>
メッセージ内容
序文)
石橋教会の元牧師有田優先生が教会員の修養会ために阪急バスの営業所に行かれた時の話です。申し込みの手続きの時に申込者としてメノナイトブレザレン教団石橋教会と言われたら、受付担当の人から「盲人の団体の方ですか?」と尋ねられたそうです。どうやら「メノナイト」を「目の見えない人」と勘違いされたのではないでしょうか。
ところで、目の不自由な人が人の話をしっかり聞いてそれを理解できたなら、その人の心の目は健全です。
しかし、自分はしっかり見えていると主張して人の話を真面目に聞こうともしないなら、その人の心の目は盲目になっており、本当のことが何も見えていないのではないでしょうか。今日の皆さまには、心の目を開いてしっかり聞いていただきたいと思います。私たちが話しているのは、人の悪口やつまらない噂話ではありません。私たちの救い主イエス・キリストのことばについて語られているのです。
本文)
1 今日の聖書の箇所で、イエス・キリストが語られた最初のことばは、
「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい」ということばでした。(マルコの福音書 8:15)
この「パン種」について語られたことを十分に理解するためには、ユダヤ人なら誰もが知っているその背景となる事情から説明しなければならないと思います。
紀元前1500年ころ、イスラエル人はモーセという指導者に導かれてエジプトから出て来る時に、「種なしパン」の祭りをすべての国民が祝ったという記録があります。エジプトを出発する時に料理を作る余裕もなかったという話もありますが、それよりも重要なことがあります。イスラエル人にとってパン種は、約五百年間住み続けたエジプトでの生活で、すっかり身についたエジプト人の宗教儀式、異教的な思想、数々の生活習慣のことです。従ってモーセが「種なしのパン」の祭りを行うように命じたことは、そのパン種を彼らの約束の地に決して持ち込まないことを約束し、決心したことを記念するための祭りでした。
「あなたがたは種を入れないパンの祭りを守りなさい。それは、ちょうどこの日に、わたしがあなたがたの集団をエジプトの地から連れ出すからである。あなたがたは永遠のおきてとして代々にわたって、この日を守りなさい。」(出エジプト記12:17)
そのような事情を背景を持っている人々にキリストが、「パリサイ人のパン種と、ヘロデのパン種とに気をつける」と語られたことは、当時のパリサイ人たちの教えていた律法主義のことです。パリサイ人は、特別に熱心なユダヤ主義者でした。彼らは、ユダヤ人ならば当然ユダヤ人が大事に守ってきた先祖の教えを硬く守り、モーセの律法に従うべきだと教え、それに従わない人を非国民のように見做していました。一方のヘロデ主義の人々は、パリサイ人とは真逆の考えで、この世の権利や利益を追い求めて互いに争っていました。彼らは人生は楽しむべきだと考え肉欲的な生活を送っていました。
キリストは「種なしパンの祭り」の教えを思い出して、そのような人々の考え方や影響を自分の生活に持ち込まないように警戒しておられるのです。最も安全で確かな道を選びたいと願うなら、あなたの心にキリストの「パン種」、「いのちのパン」を持つことです。
私は18歳の時にクリスチャンになりましたが、私のことで両親が親戚から非難されていることを知りました。「どうして仏教に熱心なあんたの家の息子がヤソの信者になったのだろうか。あの子は外国人の宣教師に騙されたのだろう」と言われていました。「日本人なら当然先祖の宗教とご先祖のお位牌を大事に守るべきである。」という考えがその前提としてあるからだと思います。キリストの時代の人々と同じことが現在も言われているのです。もう一方では、みんながやっているから、自分も時代遅れになりたくないから、という理由だけで判断したり、行動するのもどうかと思います。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種には十分に気をつけましょう。」
2 次にイエス・キリストが語られたことばは、
「わたしが五千人に五つのパンを裂いて上げたとき、パン切れを取り集めて、幾つのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「十二です。」 「四千人に七つのパンを裂いて上げたときは、パン切れを取り集めて幾つのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「七つです。」イエスは言われた。「まだ悟らないのですか。」
(マルコ8:20~21)
ということばでした。
キリストが語られたこのたとえ話を理解するために、この話の中で語られている二種類の籠について事前に説明することが必要だと思います。
初めの五つのパンと二匹の魚から5千人の人々が食べて満腹したという奇跡の物語では、人々が食べた後に残ったパン切れが十二の籠一杯になったと記録されています。この時に使用された籠はギリシャ語では「クフィノス」と書かれております。それは木の細い枝で編まれた「小さな籠」のことです。主に料理を搬送するために使われました。現在、出前などで見かける「おかもち」のように料理を持ち運ぶほどのサイズだったと思われます。 この十二の小籠「クフィノス」が象徴しているのは、イエス・キリストが神の約束と預言の通りにすべてのユダヤ人を救うために来られた神の御子キリストであること、余ったパン切れが十二の籠一杯になったのは、その救い恵みがイスラエル十二部族にとって溢れるほど豊かであることをあらわしています。
次の七つのパンと少しの魚から四千人の人々が食べて満腹したという奇跡の物語でも、人々が食べた後に残ったパン切れが七つの籠一杯になったと記録されています。先程の五千人のパンの奇跡とよく似ていますが、この時に使用された籠はギリシヤ語では「スプレイス」と書かれています。葦の茎で編まれた運搬用の「大きな籠」のことです。日本にも柳の枝などで編んだ柳行李(やなごおり)という衣類ケースがありますが、それを思い浮かべてくだされば、その時の籠の大きさが推測できると思います。
この七つの大籠「スプレイス」が象徴しているのは、イエス・キリストの救いの恵みが異邦人にも及ぶこと、イエス・キリストが全世界の人々の救い主となられることをあらわしています。七の籠一杯に余ったパン切れは、その救いが全世界の人々にとって溢れるほど豊かにあることをあらわしています。
この時の弟子たちはイエスが行われた不思議なわざを見て、ただ驚いただけで、そのことからイエス・キリストが自分にとってどのようなお方なのか、イエス・キリストは何のために自分たちの所に来てくださったのか、自分たちのために何をしようとされているのかを理解できていなかったようです。イエスは彼らの目が開かれて、そのような神の豊かな恵みを理解できるようになることを願っておられます。
決断と応答)
私たちの心の目が開かれて、イエス・キリストがなされたみわざの意味を正しく理解し、それを土台に自分の生きる力に変えていく豊かな信仰が与えられるように祈りましょう。
新聖歌
開会祈祷後:217番、メッセージ前:357番、メッセージ後:428番
聖書交読
詩篇 110篇1~7節
お知らせ
★本日の伝道礼拝の特別讃美はありません。
★S.T姉は16日に左足首を骨折され、23日に手術の予定です。
★山本秀夫兄は24日に退院される予定です。
★2月19日礼拝後に2017年度年次総会を開催します。
2017年度前半の主な教会行事
2月19日(日) 年次総会
4月16日(日) イースター礼拝
4月23日(日) 合同記念会
4月30日(日) 北部地区講壇交換(藤野師来会)
#49-2538
Comments are closed