メッセージ
<ヤコブの手紙 2章14~26節>
牧師:徳本 篤 師
開会聖句
たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。
<ヤコブの手紙 2章26節>
メッセージ内容
序文)
500年前の宗教改革者たちはパウロのことばを引用し、「人が義と認められるのはただ信仰によるのみ」ということを強調するあまりに律法とともにイスラエルに対する神の契約をも排除しようとしました。きょうの聖書個所でヤコブが「行いのない信仰は死んでいる」という語りかけに対して、パウロの教えに反するという理由で否定的な扱いをしてきました。
果たしてパウロは律法廃棄論者だったのでしょうか。イエス様は
「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」(マタイ5:17)
と語られています。きょうはこのみことばの意味をじっくり味わい知りたいと思います。
本論)
ユダヤ人の社会で「義と認められる」という言葉は法廷での用語として用いられていました。被告人の立場が有罪か無罪かを公に宣言するものです。したがって義と認められるとは、被告人自身の品性や道徳的な完全さを保証するものではなく、契約に基づいてその人の立場が判定された結論です。ユダヤ人にとって義と認められることは自分が神の民イスラエルの一員であるという立場を公に保証するものでした。
旧約聖書の時代で義と認められる判断は律法の契約が基準になっていまた。ですから律法を持たない異邦人は最初から除外されました。新約聖書の時代ではこの基準が新しく変わりました。イエス様によって完成された新しい契約が基準になりました。イエス様の十字架の死と復活の恵みを信じる者はユダヤ人であっても異邦人であっても、旧約の律法を持っていても、持っていなくても、全ての人が「信仰によって義と認められる」ことになりました。この場合でも、義と認められることは神の民イスラエルの一員として公に立場を保証するものです。ただし、新約聖書時代から神の民は、ユダヤ人と異邦人がひとつのからだに結び合わされたという意味で「キリスト教会」と呼ばれるようになりました。新しい契約においても義と認められたことはキリスト教会の一員である立場を保証するものであって、その人物の人間的な面での完全さを保証するものではありません。
信仰によって義と認められることは、信仰者としての立場の保証であり一方で、信仰者としてふさわしい行いについての課題が残されていることを忘れてはなりません。主の兄弟ヤコブが初代教会の問題として取り上げているのはその後半部分のことです。
次に、パウロが問題視していた律法主義者たちの教えは、人は行いによって救われると言っていたのではありません。聖書の中でそのように教えた人の記録はどこにもありません。この点がパウロと宗教改革者たちとが食い違う点です。パウロが問題視していた人々とは自分たちが先祖代々から律法を受け継いでいることを誇りにし、そのことに強く拘っていた人々です。この古い契約は律法を持たない異邦人をキリスト教会から除外するだけでなく、キリストが成し遂げられた新しい契約を軽視する人々たちです。パウロはこのような人々に対して、神の契約の意味を正しく理解し、キリストの恵みによる新しい契約の基準に立つべきことを強調したのです。
さて、先程から義と認められることは立場を公に保証するものであって、その人の人間的な完全さを保証するものではないことを説明してきました。
この問題を取り上げているのはヤコブだけではなく、実はパウロも同じように真剣に考えていました。
「私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現わされますように。」(ピリピ1:9~11)
ここで「義の実」に満たされるとは、「御霊の実」と同じ様にキリスト者としてふさわしい霊性と品性を伴った信仰者らしい生き方が実践されることをあらわしています。使徒たちは確信していました、信仰によって義と認められた者たちは、すでに新しく生まれた者として、その力をキリストから受けており、聖霊も私たちの内に働いておられるということです。
適用)
宗教改革者たちは、中世時代のカトリック教会の統治下で行われていた免罪符に代表されるように「善行による功徳」の教えに対抗して戦っていました。そのために、キリストによる救いと信仰による義認を強調したのです。しかし、いつの間にか改革者たちの間でヤコブやパウロの信仰義認とは違う方向に流されていった部分があると思います。
私たちがパウロの手紙やヤコブの手紙を読むときに、宗教改革者たちの時代背景やその時代の人々の偏見や先入観から解放されることが必要です。もう一度パウロやヤコブが生きていた時代の人々の生き方や彼らの確信したことを思い起こして、彼らが不完全でありながらも如何にイエス様を深く愛し、イエス様の教えを大事に守ろうとしていたかを思い知るべきです。
聖書のことば
「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」(マタイ5:17)
応答と決断)
私たちもヤコブやパウロと同じ心でイエス様を信じることができたこと、自分たちが義と認められたことを感謝しましょう。そして、現代社会でもみくちゃにされながら、それでも真剣に信仰によって生きている者としてあかしし、この歩みを続けていきましょう。
新聖歌
開会祈祷後:49番、メッセージ前:355番、メッセージ後:275番
聖書交読
詩篇 23篇1~6節
お知らせ
★本日の礼拝後にムジカンパーニュの練習を行います。
★明日12日午後7時から福音聖書神学校において臨時教団協議会が開催されます。
★入院中のH.Y兄とF.N姉の回復のために祈りましょう。
★次週18日(日)礼拝後に聖歌隊の練習、9月度運営委員会が開催されます。
2016年度後半の主な教会行事
09月27日-30日 日本伝道会議(神戸市)
10月15日(土) オータムフェスタ
10月23日(日) MB教団講壇交換
11月20日(日) 讃美礼拝(マキ&リリー)※お知らせを8月30日に掲載しました!!
12月25日(日) クリスマス礼拝/祝会
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