メッセージ
<マルコの福音書 6章7~13節>
牧師:徳本 篤
開会聖句
自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。
<マタイの福音書 6章19節>
メッセージ内容
序論)
京都といえばおもてなし文化の中心地として有名です。その京都に古くから語り継がれている「ぶぶ漬けでも如何どすか」と帰りそうな客人にお茶漬けがふるまわれるという、他府県の人には誤解される変わった習慣があります。現代の京都ではさすがにどこの家庭でも行われれているものではないそうです。その家の主婦がお茶漬けの用意をせずに口頭だけでこれを伝えた時は、訪問客に帰る時間が来たことを知らせるサインだそうです。実際にお茶漬けを用意してこれを伝えた時は、訪問客にこれを食べたら早々に帰って欲しいことを知らせるサインだそうです。お茶漬けではなく本物の夕食を用意してこれを伝えた時は、訪問者にゆっくりと食事をしてからお帰えりくださいというサインだそうです。もっとも、食事時間に訪問したり、その時間まで長居することなく用事がすんだらさっさと失礼することが賢明なことのようです。
2000年前のユダヤ人たちにも、現代人の私たちから誤解され易いおもてなし文化がありました。
本論1) <ユダヤ人に継承された旅人をもてなす習慣> 参照:創世記18章3節、19章2節
ヘブル人への手紙13章2節では、
「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。こうして、ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしました」
と、遠い先祖アブラハムの時代から旅人をもてなす習慣を大事に守ってきたことが書かれています。そのような歴史的な背景から自然に身に着いたのが、旅人をもれなす行為が良い行いとして高く評価される価値観を生み出したのです。その考えが彼らの生活習慣になり、住居の構造やもてなしの作法などを充実させていたようです。もし、弟子たちが異邦人のところに派遣される時は、キリストはこれとは別の条件で弟子たちを派遣されたはずです。使徒の働きを読むときに、これと同じ方法が用いられていないことがそれを証明しています。まして、文化も習慣も、住居の事情などすべてがまったく違う現代の日本において、まるで科学の実験をするかのように、キリストの指示された通りにやってみようと試みることは聖書の本筋を甚だしく誤解していることになります。従って、この箇所を読むときには、当時のユダヤ人社会の背景を理解しなければなりません。キリストが弟子たちに指示を与えられたのは、当時の旅行者にとって通常よりやや厳しい程度だったと理解すべきです。
日本人が陥りやすい落とし穴があります。信仰生活を僧侶たちの厳しい托鉢修行と重ねてこの聖書個所を勝手に想像することです。その背景には、日本人が過去から受け継いできた精神的風土として、苦行や訓練を信仰深さに結びつける考え方があります。その結果、聖書が大して重要と考えていない部分を肥大化して解釈されてしまう場合がありますので、そのところをよく注意して欲しいと思います。
今日の聖書個所で最も重要なことは、弟子たちを派遣されたのはキリストご自身であり、弟子たちはキリストから委託されたものを人々に届ける務めを請け負った人たちです。したがって弟子たちを受け入れることは、彼らを遣わされたキリストを受け入れることになります。弟子たちが伝えた福音はキリストが彼らに託された重要な知らせだったのです。ここで最も重要な教えとは弟子たちの修行のことや、そのための苦労話のことではなく、キリストを受け入れるように弟子たちを受け入れる人を、キリストも同じようにその人を受け入れてくださるという約束です。
本論2)<ユダヤ人の足の裏のちりを払い落とす習慣>
足の裏のちりを払い落とす儀式は、これもユダヤ教社会では日常的に行われていたものです。国外に出たユダヤ人が再び祖国の国境に差し掛かる場所に来ると、今まで身に着けていた上着を脱いで、それについた外国のちりやほこりを払い落としてから国境を越え、その後に再び上着を着るということを習慣的に行っていました。当然のように履物も同様にそこで脱いで足の裏についたちりをすべて叩き落とすようにしていたのです。
キリストは、ご自分が遣わされた弟子を受け入れず、ご自分が弟子たちに委託された福音を聞こうとしない人々に対して、抗議する意味で弟子たちにそこで足の裏のちりを払い落とすように命じられたのです。これは弟子たちを拒絶した人々が神から異邦人のように扱われるという意味です。
今日の開会聖句のマタイ6章19節には
「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。」
書かれていました。
宝のあるところにその人の心もあるからです。そうなると人の心は神のことばを真剣に聞いて、本気になって悔い改めようとしなくなります。信仰のことを真面目に取り上げて考えることができなくなるからです。その結果、口先だけの信仰に陥りやすいのです。マタイ7章21節に
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者が入るのです。」
と書かれているのはそのことです。
キリストが弟子たちにある人の家を出るとき、足の裏のちりを払い落とすように命じられたのは、外側では真面目なユダヤ人のように振る舞いながら、その心にはユダヤ人の心がなく、異邦人のようにこの世の宝を追い求めることが空しい生き方だと知りながら、そこから悔い改めることがないなら、神もまたその人を異邦人と同じように扱われるという警告です。
決断と応答)
それらを現代の私たちに適用したらどういうことになるでしょうか。もし、キリストに赦され、受け入れていただけないなら、私たちの人生は神の御前では足の裏のちりに過ぎないということです。
人の目には何もかも順調に暮らしているように見えても、何ひとつ不自由のない、悩みも心配もない、幸せ一杯に見えても、天国の門の手前でポンポンと払い落とされたらそれでおしまいです。
足の裏にちりでさえ天の御国に入れていただくにはどうしたら良いでしょうか。それはふた心の無いあなたの真剣さです。本気になって聞くことです。キリストはご自分のいのちを犠牲にしてまで真剣に私たちの救いを備えてくださいました。私たちも本気でみことばを聞き分ける人になりましょう。本気でそれを受け入れ、真剣になって罪を悔い改めるなら、キリストはあなたを受け入れ、あなたの罪を赦し、永遠の御国に入れてくださるお方です。
だれでも天国の入り口でポンポンと払い落とされるちりのようなのは嫌でしょう。だから、キリストに向かって本気でみことばに聞き従う決意があることを告白しましょう。
新聖歌
開会祈祷後:248番、メッセージ前:特別讃美(女性会)428番・438番、メッセージ後:345番
聖書交読
詩篇 84篇1~12節
お知らせ
★本日の伝道礼拝での特別讃美は女性会による合唱です。
★本日礼拝後に臨時総会が開かれます。
★5月8日は北部地区の交換講壇日です。千里教会に寝屋川教会から畑直樹師が来られます。徳本師は枚方教会に行かれます。
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