知人に拒絶されたイエス

メッセージ

<マルコの福音書6章 1~6節>
牧師:徳本 篤

今日のみことば

主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。

<ペテロの手紙 第一 2章4節>

メッセージ内容

序文)
マタイ16:23にイエスが弟子であるペテロに向かって次のように語られたことが書かれています。

「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

この聖書箇所は私たち人間の心には二つの思いがあることを教えています。
一つは人のことを思う心です。人の基準や常識で物事を考え自分の好む方を選んで行動する心です。
もう一つは神のことを思う心です。神のご意思や約束や計画を考えながら判断して行動する心です。
何と驚くことに、そのイエスの弟子であったペテロさえも人のことを思う心に支配され、判断することが混乱し、一時的でしたが誤った方向に向かおうとしていたのです。

本論)
私たちの心はこの二つのどちらに支配されやすいでしょうか。
今日の聖書の個所であるマルコの福音書6章1節~6節は、私たちが如何に人のことを思う心に支配されやすいものであるかを物語っている箇所です。

ナザレと呼ばれた地方都市は、イエスが幼少期を過ごされた場所でした。イエスは30歳の頃に郷里のナザレをおひとりで出て行かれました。知人や親せきなど大勢に見送られてというより密かに出られたようです。それからわずか1~2年後に大勢の弟子たちを引き連れて帰って来られたのでから、小さな田舎の村ではそのことだけでも大変な事件だったと思われます。

次の安息日にはイエスが弟子たちを伴って会堂に入って来られ、人々を教え始められたのです。この様子は郷里の人々の目にはどのように映ったでしょうか。人々はイエスのことを幼い頃からよく知っていました。その家族についても同様です。この人はつい最近まで自分たちと同じように生活し、同じようにこの会堂に来て、そぐ傍の席についておられたのです。ですから、いま目前で大胆に神のみことばを教えておられるイエスの姿はまるで彼らが知っているイエスとはまるで別人のようでした。イエスの驚くような変わりように人々は目を見張ったことでしょう。 それだけではありません。その教えの中身が普通の律法の教師の教えとは全く違っていたのです。それは権威に満ちたことばであり、大胆に神のみわざと偉大な力を宣言されていたからです。今までこのように語った人は居ませんでした。一体どこでこの人はこのような知識と力を得たのだろうかと驚きました。

4節の「尊敬されない」 atimosとは、「無礼な振舞い、軽蔑する、見下す」などの意味があります。 
 
聖書はイエスの教えやわざを見て驚いた郷里の人々反応は、その知恵と力が「大工の子」から常識として出てくるはずがないと判断しました。さらにイエスの父ヨセフを侮辱する「マリヤの子」という言葉が出てきます。彼らの口から出てきた言葉は、明らかにイエスの力あるわざと知識に対する疑念と嫉妬と軽蔑でした。

洞察と適用)
かつてナザレの人々と同じようにイエスに嫉妬し、激しく拒絶していた人物のひとりにパウロがいました。そのパウロはイエスと直接に出会ってからその考え方が全く変わりました。そのパウロの深い反省と悔い改めの言葉ばが ピリピ2章6節~11節に記録されています。

6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
9 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
11 すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」

 
イエスはナザレの人々の心とその態度を不信仰だと言われました。不信仰というスカンダロンという言葉の意味は「餌のついた棒」をあらわしました。それは動物を罠にかけて捕まえるために使われました。イエスが人のとなられた謙遜な姿が軽蔑され、へりくだられた神の御子の人格が見下される時、その人々は罠にかかったのです。不信仰な人は自分が受けるべき神のみわざを拒絶していることを知りません。神の恵みによる永遠の救いは、それを聞いて受け取る人の信仰の度合いによって決まるものでもありません。恵み深いイエスのご人格が拒絶されるとき、その人に神の恵みのわざは決して起こりません。罠にかかった動物には決して自由がないのと同じです。

応答)
最初にペテロのことを話しましたが、私たちの心も同じように、うわべだけで人のことを思う心に支配されやすいです。目に見えない罠から解き放たれるために、今日あらためて神を思う心に目を注ぎ、イエスを真心から敬い、信頼し、イエスのご人格を尊敬しましょう。この方が望まれること、この方が喜ばれること、この方が期待しておられることに関心を持ちましょう。あなたが周囲の人々に対する考え方が違ってくると、あなたの生き方も変わるでしょう。今日、罠を捨ててしまいしょう。それから遠ざかりましょう。

イエスはまことの神の御子であり、あなたの救い主となるために天より地上に降りて来てくださいました。貧しい家族とともに人の子としてのご生涯を過ごされ、人々に見られ、人々に語られ、すべての人の罪の身代わりである十字架の死を味わってくださいました。それは、イエスを信じる人が永遠のさばきから救われて、神の家族に加えられ、永遠のいのちをもつためです。 このお方はあなたの主です。あなたのイエスです。

メッセージ内容のダウンロード(PDF134KB)

新聖歌

開会祈祷前:266番罪 咎を赦され」、メッセージ後:426番「世には良き友も」

特別讃美

聖歌隊
新聖歌038番「わが目を開きて」
新聖歌254番「心にあるこの安きを」
新聖歌438番「悩む世人のために」

お知らせ

★3月2日(水)大阪レディースランチョンに千里教会から8名が出席します。お祈りください。なお当日の水曜祈祷会は休みます。
★次週3月6日(日)の午後から2016年度年次総会を開催します。当日参加できない教会員の兄姉は委任状を議長までご提出ください。
★3月度の聖餐式は3月13日(日)礼拝後に行います。

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