メッセージ
<マルコの福音書 5章35節~43節>
牧師:徳本 篤師
開会聖句
主は生きておられ、あなたのたましいも生きています。 私は決してあなたを離しません。
<第2列王記 4章30節>
メッセージ内容
序論) 信仰による救いをあかしする場面
今日のマルコの福音書5章の後半部分にみられる会堂管理者ヤイロの娘の救いと長血の女の救いの記録とのサンドイッチの形態は、この後の続く6章に記録されているイエスの郷里であったナザレの人々の不信仰は態度と対照的になっている。イエスはナザレではほとんど力あるわざをなさらなかったことが印象に残ります。したがって、今日の聖書個所では私たちのために救いはイエスに対する信仰によるほかに他の道はないことが強調されています。イエスに対する信仰のあかしとして今日の箇所に注目してみましょう。
本論)
A 「イエスの足元にひれ伏した」ヤイロの信仰のあかし(5章22節)
<会堂管理者ヤイロについて>
(1)会堂管理者アクキシナゴーグスとは、建物の管理だけでなく、そこで行われるあらゆる宗教行事を準備する最高責任者でした。
(2)当時の会堂を中心としたその地方のユダヤ人共同体の指導者のひとりでもありました。
(3)ヤイロという名前をいうだけで、この人物が誰であるかがわかるこの地方の著名人だったようです。
<イエスの足元にひれ伏したヤイロの行為=信仰のあかし>
(1)当時の習慣として、足元にひれ伏すことは相手の人に対する従順と敬意を表わす行為でした。ヤイロがイエスの足元にひれ伏した行為は、人々の前で公然とイエスに対する信仰をあかしするものでした。同じように33節では、長血を患った女性もイエスに対して人前で自分の信仰をあかししました。
(2)この時のヤイロは会堂管理者としての立場や名誉を重んじる指導者としてではなく、小さい娘の生命を救うことだけを懸命に願う父の顔でした。
B 「イエスのことばに聞き従った」ヤイロの信仰のあかし(5章36節)
36節:「恐れないで」とは、禁止命令形「恐れる行為を直ちに止めなさい」という意味です。
36節:「信じていなさい」とは、継続命令形「信じる行為をさらに続けなさい」という意味です。
<他者の妨害により遅れたことを忍耐させられたヤイロ>
会堂管理者ヤイロにとって自分の娘の生命があぶないという緊迫した時に、道の途中で長血の女性がいやされたことや彼女の信仰告白の場面が割り込んできました。その女性にとって幸せな出来事であったとしても、ヤイロには自分の娘が助かる可能性を奪っていく妨害になりました。まだか、まだか、といらだつ思いを必死にこらえていた矢先に最も恐れていた知らせが彼のもとに届きました。その人は言った「あなたのお嬢さんはなくなりました。」 ヤイロがあんなに強く願っていたのに、間に合いませんでした。
<将来が絶望的な場面でイエスについていくヤイロ>
それでもイエスは「恐れないで、ただ信じなさい。」と言われた。この場において恐れるなとはどういうことでしょうか。信じ続けなさいと言われるけれど、娘がなくなった以上これから何を信じたらいいのでしょうか。
あと残された道は、死んだ娘のいのちがよみがえることしかありません。イエスはそれを信じなさいと言っておられるのだろうか。まさか、そんなことは今まで聞いたこともないし、とても信じられない。
それでも、確かにイエスはヤイロに「恐れないで、ただ信じなさい。」と命じられました。
すでにヤイロの家では、近所の人々やヤイロの知人や親族や家族が集まって亡くなった娘のために嘆き悲しんでいました。そこに到着されたイエスは、ヤイロと彼の妻と三人の弟子だけを連れて娘が安置されている部屋の中に入って行かれました。
ヤイロにはイエスがそこで何をされようとしているのか訳がわかりません。ただイエスが言われた通りその後について行きました。何とイエスは死んだ娘の手を取り、娘に向かって「娘よ。起きなさい。(タリタ、クミ)」と力強い御声で語りかけられました。すると、どうでしょう。まるで今まで眠っていた娘が目を覚ますかのように起き上がったかと思うと、そのまま歩き始めたではありませんか。ヤイロと彼の妻はあまりの出来事に驚いて言葉も出ませんでした。
C 「娘の手を取られた」ことはイエスとヤイロの信仰による共同作業をあかしする
41節:「手を取って」とは、マルコ1章41節ではイエスがライ病を患う男性に手を伸ばして触られた行為と同じように、イエスの深いあわれみをあらわす行為でした。それはイエスがヤイロの懸命な願いに応えてくださったこと、その信仰に対して憐れみ深いイエスの御手が伸ばされたことを象徴しているように思われます。
41節:「タリタ、クミ」とは、その地方の日常のことばであったアラム語で「娘よ。起きなさい」という意味です。「タリタ、クミ」という言葉は決して魔術の呪文のようなものではなく、人々が日常的な会話の中でも使われていたものです。救いは「ことばの魔術的な力」によるものではなく、イエスがあわれみと権威によって語られたことばだからこえそ力が働くののです。
43節:「食事を与えるように」と命じられたイエスは、私たちの救いのみわざの体験や信仰回復の体験は驚くほどの喜びですが、そこで終わってはいけないのです。イエスは救いのわざが日常生活(生活習慣)の回復にまで至るべきことを命じられました。イエスは私たちと日常生活をともに歩み、ともに楽しむことを願っておられるのです。それが私たちの信仰生活、クリスチャン生活のあり方です。
応答)
今日の聖書個所から救いは信仰のみであることを知りました。それはただ心で願い続けるだけでなく具体的に表面にあらわれ出る時に、イエスに対する明確な信仰のあかしになります。具体的には、人前で自分の信仰をあかしすること、イエスにひれ伏す態度を見せること、信じて忍耐すること、信じられない時もイエスを信頼して後について行くことです。
さらに、イエスの救いは、ただたましいだけでなく、日常生活のあり方まで新しく変えました。
次は、あなたの信仰のあかしを見せてください。
新聖歌
開会祈祷後:248番、メッセージ後:227番
特別讃美 ピアノ演奏N.T姉
聖書交読
詩編22:1節~10節
お知らせ
★本日の伝道礼拝の特別讃美はN.T姉によるピアノ演奏です。午後から1月度定例運営委員会が行われます。
★次週31日の礼拝は徳本師が小牧伝道所での奉仕のため、Y.Y兄が奨励の奉仕をしてくださいます。
★2月1日(月)は福音聖書神学校入学願書締切日です。新入生が与えられるようお祈りください。
#50-2593
Comments are closed