メッセージ
<詩編140篇 1節~13節>
牧師:徳本 篤師
開会聖句
「私たちを試みに会せないで、悪からお救いください。」
<マタイの福音書6章 13節>
メッセージ内容
序文) 冬山のメジロ獲り
まだテレビのない時代に、田舎の少年たちの冬山での楽しみのひとつにメジロ獲りという遊びがありました。山に行くと「鳥もちの木」と呼ばれるものがあって、その樹皮を剥がし、ひたすら金槌で叩き潰すと誰にでも簡単に「鳥もち」を作ることができた。この粘着力の強い「鳥もち」とツバキの枝に巻き付けるように塗り付けておきます。メジロがツバキの花の蜜を吸いにやって来てそこに止まるとくっついて動けなくなるのです。
さらに高度なやり方として囮のメジロを入れた鳥カゴを木に吊るし、その回りの枝に「鳥もち」を塗り付けておく方法です。囮の鳴き声に呼び寄せられたメジロがやって来て「鳥もち」の枝に止まったところを捕まえます。
本論) ダビデを狙った罠
今日の詩篇140篇には、鋭く、巧妙な「ことばの罠」でダビデを陥れようとする悪意を持つ人々のことが書かれています。ダビデが誰からこのような仕打ちを受けたのか、時代背景や相手となる人物像は不明確です。この世の社会では、クリスチャンであることに対して悪意ある言葉を投げかけられ、攻撃の対象にされることもあると思います。
そんな場合クリスチャンは二重の葛藤を抱くことがあるのです。一つは敵対する人の仕掛けた罠にはまって苦しむことです。もう一つは、苦しんでいる時に具体的に神の助けが見えてこなくて不安に思い、焦ってしまうことです。クリスチャンの信仰をあざ笑う人々にとってそれは二倍面白くなります。
そんな時にダビデはどうしただろうか。彼は神に祈ることを選びました。詩篇140篇6節から13節を注目してみると、ダビデが祈った三つのことが書かれています。
第一は、6節から7節
「私の頭をおおわれました。」これは兜のことです。
「救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」(エペソ6章17節)
身体の最も大事な頭の部分が鋼鉄の兜に守られているように、どんな攻撃も致命傷には至りません。それなのに、私たちはなぜ神に祈るのでしょうか。如何に頑丈な兜であってもそれを頭に固定するヒモがうっかり緩んでいたりすると、大事な時に兜がスッポリと脱げ落ちることもあるからです。ダビデのように、私たちのも自分の頭を守る兜のヒモをしっかり絞め直すのは大事な時こそ必要なことです。
第二は、8節から11節
「そのたくらみを遂げさせないでください。」復讐は神ご自身が相手に対して返されること。自分が復讐するものではありません。ダビデはそれを知っていたようです。
「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。」(ローマ12章19節)
高ぶりと、悪意をあらわにしてクリスチャンに敵対する者は神を怒らせているのです。
神が味方であるならどんなに心強いでしょうか。しかし、神が敵になられたらそれは大変なことになります。それなのになぜダビデは祈るのか。それは怒りと憎しみの感情が自分のうちに復讐心を掻き立てるからからです。思い出してください。自分で相手に仕返しをしたら、神の出番を奪うことになります。また、人の短気は神の計画を実現させることがありません。
第三は、12節と13節
「直ぐな人はあなたの御前に住むでしょう。」住むとは、自分の居場所を神のご臨在の中に設けることです。敵対する者からの攻撃を受け、また困難や試練を体験するとき、それは辛いものであり、苦しみや心の痛みを伴うものです。
詩篇84篇3節には小さな雀さえも神の家に巣を作る知恵について書かれています。私たちは知恵を働かせて、どこに自分の居場所を設けるかを知っていなければなりません。
応答)
自分の夢が叶うことや、不自由や困難のないことが幸いな人生ではありません。そこには安全であるという保証がありません。壊れやすいものです。傷つきやすいものだからです。しかし、ダビデは神のご臨在の中に自分の住み家をいつまでも確保するため祈りました。
あなたにも神がダビデと同じ平安と確信を与え、あなたを悪しき者から守ってくださるように祈ります。
新聖歌
開会祈祷後:299番、聖書朗読後:117番、メッセージ後:318番
詩編交読
詩篇148:1節~14節
お知らせ
★本日の礼拝後にクリスマスの後片付けと会堂掃除を行います。
★30日(水)の祈祷会および聖研祈祷会は休みます。
★2016年1月1日元旦礼拝は午前11時から開始です。
聖書個所 伝道者5章18節~20節
説教主題「人生は神からの賜物」
★2016年1月1日MB教団新年聖会は午後3時から開始です。
会場:堺中央キリスト教会
講師:田中芳文師(星田チャペル)
#49-2489
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