メッセージ
<エペソ 6章1~4節>
牧師:徳本 篤
開会聖句
父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。
<エペソ 6章4節>
メッセージ内容
序論)
古典落語 「松山鏡」でも語られているとおり、日本人の心には古くから言い伝えられている儒教的な親孝行という教えに馴染み親しんでいます。今日の聖書個所において、パウロも同じように両親を敬い、言うことばに聞き従いなさいと教えているように思われます。どこまでが同じで、どこが違うのでしょうか。今日はそのような疑問をしっかり解決したいと思います。
本論)
先週の聖書個所であった5章22節~33節で、パウロはキリストと教会との一体性をモデルとする理想的な夫と、理想的な妻のあり方について教えました。 それに続く本日の聖書個所の6章1節~3節では、理想的な父の教えに敬意をもって耳を傾け、よく聞いてそれにふさわしく応じる理想的な子どもについて教えています。
6章4節には、主の「みことばによる」教育と「自分の模範的な行いによる」訓戒によって子どもを養育する父の務め(母の務めについては何も述べられていない。)について教えられています。
現実の問題として、そのように自分の子どもをしっかり養育できている理想的な父親や理想的な家庭があるでしょうか。もう随分と昔のことになりますが、宣教師の家庭で聞き分けのない子どもを鞭で叩いて躾けをしている話を聞いた時は心が痛みました。自分が将来家庭を持ったらそのようにはしたくないと思いました。
パウロは、実現不可能と思われる理想的な夫婦や親子のあり方を、無理にでもわれわれに押し付けようとしているのでしょうか。そのことにどんな意味や理由があるというのでしょうか。
洞察)
このような実践的な聖書の個所を読む時に、きっとどこかにカギとなる霊的な原則があるはずだという期待や結果の予測がなければ、私たちは何かをそこから学ぶことはできません。
夫と妻の問題が「キリストと教会」の問題と連携されているように、父と子の問題も
「主にあって両親に従いなさい。」(エペソ06:01)
主人と奴隷の問題も
「キリストに従うように、・・・真心から・・・従いなさい。」(エペソ06:05)
「主に仕えるように・・・仕えなさい。」(エペソ06:07)
というように同じ教えが繰り返されながら一つにつながっていることが分かります。
パウロがわれわれに教えようとしていることは、キリストを恐れ敬い、真心から仕えるという霊的訓練は、現実の夫と妻の関係の中で、父と子の関係の中で、主人と奴隷の関係の中で実践されなければ身に着かないということなのです。そうではないでしょうか。
適用)
キリストを恐れ敬う心から自分の妻を愛せない夫は、子どもを愛することも、神を愛することもできない、自己中心な者なのです。パウロは具体的な日常での出来事によって深い真理が実践されていることを明らかにし、これらのものが、みな一つの真理でつながっていることを明らかにしたのです。
次の聖句が実証するように、霊的な真理と日常生活の真理とは一体でなければならないのです。
「20 神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。
21 神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。」(第1ヨハネ04:20、21)
パウロの教えの基本になっている、キリストのみことばを思い出し、そのみことばの意味を思い巡らしながら、真心こめてそのみことばに聞き従いましょう。
「29 イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。
30 心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
31 次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」(マルコ12:29~31)
あなたの隣人とは、あなたの夫のこと、あなたの妻のこと、あなたの子どもたちのこと、あなたの父のこと、あなたの上司のこと、あなたの同僚たちのことです。
彼らに対するあなたのことばや態度が神を恐れ敬う心と一致することをあらわしてください。そこに神は祝福の泉を開いてくださいます。
新聖歌
開会祈祷後:155番、聖書朗読後:257番、メッセージ後:355番
詩編交読
詩篇95:1~11節
お知らせ
★礼拝後に聖歌隊の練習を行います。午後からムジカの練習を行います。
★次週は讃美礼拝形式で礼拝を行います。司会はS.Y姉、特別讃美はM.A姉です。
★10月17日(土)NBCにおいてオータムフェスタが行われます。
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