愛されているものらしく歩め

メッセージ

<エペソ 5章1~7節>
牧師:徳本 篤

開会聖句

ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。

<エペソ 5章1節>

メッセージ内容

序論)
「バイブル・スパイス」という本の著者でクリスチャン実業家でもある渡辺明日香さんはその本の中で「自分が愛されているということが分かるのは、誰かを愛したことのある人です。愛とは、自分の助けを必要としている人のために自分を犠牲にすることです。」と語っておられます。私も父親になったとき初めて両親が自分のためにどれだけの犠牲を払ってくれたかが分かりました。そんな両親の犠牲を考えると、自分の身体を大事にし、恥じることのない人生を生きていこうと思います。

本論1) キリストがささげられた香ばしいかおりとは、自己犠牲のかおり。
エペソ5章1節を開いてみましょう。ここでパウロが語る

「愛されている者らしく、神にならう者となりなさい。」

とは、自分も誰かのために犠牲を払ったときに、キリストが自分のためにどれだけの犠牲を払ってくださったかを理解したことと同じような体験に基づいているものだと思います。

というのは、続いて2節で

「キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。」

と語られているからです。

キリストの12弟子だったヨハネは第1ヨハネ3章16節~18節のところで次のように言っています。

「16 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。
17 世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。
18 子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。」

パウロが語る、「キリストがささげられた香ばしい香りのささげもの」とは、ヨハネがあかししているキリストの自己犠牲のことです。さらに、パウロとヨハネは、私たちにも同じように自己犠牲というキリストのかおりをささげるようにと勧めているのです。

適用1)
ヨハネはさらにそれが、ことばや口先だけで愛するのではなく、行いと真実をもって愛し合おうと勧めます。あなたの自己犠牲が香しいかおりとなって周りの人に広がっていくような生き方を考えてみましょう。それが神に愛されている者らしさをあらわすあかしになるのです。

自分の周りの人たちとは誰のことでしょう。あなたの助けを必要としている人がいるか振り返ってみましょう。いつ、どこで、どのように自己犠牲をみせることができるでしょうか。これを今週の新しい目標として、神に愛されている者らしく振る舞うことができるよう、お祈りし、もう一度チャレンジしてみましょう。

本論2) 信仰は生もの、鮮度がいのち。腐敗させないよう注意する必要がある。
続いてエペソ5章3節~5節をみてみましょう。

「あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者――これが偶像礼拝者です。――こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。」

例話)江戸前寿司職人のことばに、「大トロは仕入れで8割味が決まるが、コハダは仕込みで8割味が決まる。」という言い伝えがあります。寿司職人にとってコハダという魚の仕込みには特別な思い入れがあるようです。この料理の出来・不出来によって職人としての情熱と技が明らかにされるからです。

  1. 仕入れた鮮度の良いコハダを氷を入れた真水に漬けおく。ウロコを浮かせてきれいに引くことができる。
  2. きれいに捌いた後、ザルに並べて振り塩でしめる。夏は1時間。冬は1時間半。
  3. 流水で表面の塩を軽く洗い落とし、水気を切って「酢洗い」をする。
  4. ザルにあけて古い酢を切り、冷やした新しい酢で「本漬け」をする。夏は25分、冬は35分
  5. 手のひらで軽くはさんで「酢切り」をしたあと、背中を合わせてパットに並べ冷蔵庫でねかせる。
  6. 「味落ち」と「色やけ」をさせないためパットの底に溜まる汁と酢をコハダに吸わせないよう注意する。
  7. キラッと光る美味しいコハダの握りたてをお客に出すのが職人のわざです。

適用2)
私たちにはキリストからいただいたすばらしいいのち。新しい人としてのいのちがあります。しかし、このいのちには鮮度があります。そのいのちが生き生きと輝いているか、いないか。人前に料理として出せるものか。出せないものかに分かれるのです。どうしてそのような違いができてしまうのでしょうか。寿司職人がしたことを思い出してください。どの仕込みも大事な工程ですが、とくにコハダを冷蔵庫の中でねかせていたときに、塩と酢の力で絞り出された古い肉汁が出てきて、それが底の方に溜まっていました。職人はその汁をコハダが吸わないように注意深く処理していました。

クリスチャンも最初のうちは生き生きと輝いていたのに、年数を重ねていくうちに、いつの間にか一旦脱ぎ捨てたはずの古い人の性質、4節~5節にあるような「みだらな身なり、愚かな話、下品な冗談、不品行、不道徳、貪欲な生活」がいつのまにか溜まってくるのです。もし、それを再び吸い込んでしまうようなことをすれば、その結果はどうなるか想像してください。もし寿司職人であればそんな魚を客に出すことは決してしないでしょう。
憐れみ深い神は、私たちのことをそのような扱いはされませんが、だからといってみことばの忠告を聞き入れず、なすがまま放置するなら、どんな控えめに言っても神が喜ばれることはありません。

しっかりと目を覚まして。自分に神が与えられた「愛されている者らしさ」、「新しいいのちの鮮度と輝き」を失うことが無いよう大切に守り、いつも輝いている信仰と真心で神をあがめられるよう、互いに励まし合っていきましょう。

メッセージ内容のダウンロード(PDF15KB)

新聖歌

開会祈祷後:137番、聖書朗読後:449番、メッセージ後:386番

詩編交読

詩篇50:1~15

お知らせ

★本日礼拝後8月度の聖餐式を行います。
★八月は水曜祈祷会をお休みにします。次週から礼拝後に会堂の掃除を行います。
★来週9日(日)の礼拝は講壇交換のため長瀬教会の牧師が来てくださいます。

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