聖書の民

令和5年5月8日(月)より新型コロナウイルス感染症が5類感染症へ移行することに伴い、礼拝での規制を緩和します。具体的には、会衆讃美は全節歌唱する、省略していた聖書交読を復帰し、司会者朗読→会衆朗読を交互に行います。
なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。

メッセージ

<テモテへの手紙 第二 3章14~17節>
MB寝屋川キリスト教会牧師:大山 明

開会聖句

聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。

<テモテへの手紙 第二 3章16~17節>

メッセージ内容

Youtube動画

動画公開をいましばらくお待ちください。
 メッセージ動画公開:4/1 PM 4:47
今回はメッセージ動画が2本に分かれています。上の動画から順にご覧ください。


 メッセージ要約を公開しました。  


序論
MB信仰告白の第2部「日本メノナイトブレザレン教会はいかに神の目的に応答するか」は MB教会を「聖書の民」「宣教の民」「平和の民」としています。「民」は教会が神の共同体であることを表しています。教会は「イエスを救い主として告白した人の集まり」であり、建物のことではありません。
第1部では「教会は神の新しい創造である」と強調されていました。「新しい創造」とは神が世界を創造された時のような平和と秩序を、教会を通してこの世にもたらそうとされることです。ではそのために教会はどうあるべきなのか、信仰告白第2部を元に一緒に考えましょう。

本論

MB信仰告白 第二部 日本メノナイトブレザレン教会はいかに神の目的に応答するか
A.日本MB教会は「聖書の民」である
1.聖書の性格
旧新約聖書は権威ある神のことばであり、信仰と生活の誤りない指針である。聖書は解釈され、理解され、伝えられ、宣言され、人々を変革する。

「聖書は権威ある神のことばであり、私たちの信仰と生活の大切な指針である」と宣言しています。指針とは生活の目安や手引きということです。Ⅱテモテ 3:14-17に、「聖書は神の霊感によるもの」とあります。聖書の各書の筆者は意思と目的を持って当時の読者に伝えようとしていることが分かります。その執筆の背後に神が働かれたというのが霊感の意味です。
つまり聖書の成り立ちに神ご自身が深く関わられたのです。聖書にこの神の権威を認めるかどうかで、私たちの信仰のあり方は全く変わります。私たちMBは聖書を「権威ある神のことば」として認めるからこそ生活の指針とし、生活に適用し実践しようとするのです。聖書には私たちの考えや行いを変える力が確かに備わっているのです。
聖書を通して私たちは神と神のみこころを知り、それに従うとき、素晴らしい祝福をいただくことができます(詩篇 19:7-11)。聖書は今も生きて働く神のことばだからです。

2.聖書解釈の基盤
聖書解釈の基盤は、新約聖書に示されたキリストである。それは、イエスの生涯・死・復活を通して明らかにされた神の価値観に基づいて聖書を解釈することである。

聖書はとても古い本で、書かれた当時と今とでは様々なことが違っていて、聖書を読んでいても分からないことがたくさんあります。それで聖書を読み解くことが必要です(聖書解釈)。具体的には、筆者は誰に何の目的で書いたのか(筆者の意図)を読み取り、その箇所が今の私たちにどんな意味を持つのか(適用)を考えます。そして MB信仰告白では「聖書解釈の基盤はキリストである」と言っています。キリストが生涯を通して示された価値観を離れて、聖書を解釈することはありえないのです(ルカ 24:44-48)。

3.聖書解釈の共同体
すべてのキリスト者に聖書は開かれている。それは、個々人で聖書を読み、また教会の人々とともに聖書を読むことを意味している。聖霊の働きと適切な方法によって、聖書を読み、理解し、従い、適用し、聖書の真理に生きることが期待されている。

かつての教会では、一般の信者が聖書を読むことは許されませんでした。カトリック教会の礼拝のメインは、聖書の言葉ではなく聖餐式(聖体拝領)です。教会のトップであるローマ法王が強い権力を持ち、聖書の言葉を隠して権力を行使し、教会が堕落した時がありました。
それに異を唱えたのが宗教改革を行ったマルティン・ルターです。そしてプロテスタント教会が生まれました。ルターの功績のひとつは聖書をドイツ語に翻訳したことです。さらにグーテンベルクの活版印刷の発明によって聖書が大量に印刷され、誰でも自分の言葉で聖書を読めるようになりました。さらに宗教改革は広がり、改革派教会も生まれました。
そして新しいグループの人々がさらに進んだ改革を始めました。その人々は聖書に基づいて、洗礼は個人の意思と信仰に基づいて行うべきと考え、自分たちで洗礼を受け直しました。それがメノナイトの元である再洗礼派(アナバプテスト)の始まりです。しかし幼児洗礼の否定はそれまでの教会のあり方を大きく否定することになり、再洗礼派は異端とされてカトリック教会だけでなくルター派や改革派の教会からも迫害を受け、多くの殉教者が出ました。
また再洗礼派は教会のあり方についても考えました。ルターは「教会は神の言葉が語られ、礼典が適切に執行される場所である」とし、説教を礼拝の中心に置きました。これは宗教改革の大きな成果です。しかし再洗礼派の人々は「教会とはイエスに従うことを目指した契約の共同体である」と考えました。礼拝でみことばを聞くだけでなく、みことばに聞き従うことを励まし合うのが教会の使命と考えたのです。
新約聖書の初代教会でも、強力なひとりのリーダーが説教で一方的に導くのではなく、家庭集会のような少人数の集まりで互いに教え、戒め合っていたことが分かります(コロサイ 3:16)。当時は個人で所有できる聖書はなかったので、教会で聞いたことをしっかり心に留めようとしたのです。またキリストの教えをただ聞くだけでなく、互いに教え、戒めようとしました。それが再洗礼派が求めた教会の姿です。聖書の民として歩む模範がここにあるのです。

メッセージ原稿のダウンロード(PDF35KB)

会衆讃美

開会祈祷後:新聖歌423番、メッセージ後:新聖歌37番

聖書交読

詩編114篇 1~8節

2025年教会行事


4月2日(水) オリーブ・いきいき百歳体操 (10時~11時)

#57-2966

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