なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。
メッセージ
<創世記 3章1~7節>
信徒:K
開会聖句
ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
<コリント人への手紙 4章16節>
メッセージ内容
Youtube動画
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メッセージ原稿を公開しました。
<はじめに>
昨年は幾つかの電化製品の買い換えをしました。まず洗濯機が壊れ、パソコンと電話は壊れてませんでしたが、やむを得ず買いました。電話を買ったいきさつは、吹田市で迷惑電話防止付きの電話を買いましょうというキャンペーンがあったからです。補助金も出ますという回覧が回ってたし、巡回のお巡りさんに言われたことがきっかけになりました。私が「携帯もあるし、まだ怪しいのは判断できると思っている。」というと、「そういう人が一番危ない。」と言われ、買うことにしました。結果、相手が名前を名乗りたくないような勧誘の迷惑電話はかからなくなったと思ってます。でも、すべてを防ぐわけではないですね。やはりちゃんとした営業の電話はくぐり抜けてきます。例えば、今使ってる料金が安くなりますよという類いのものです。そういう電話につい乗ってしまうのは、私の心のうちに「欲」が潜むからだと思います。今日は創世記3章で、女が蛇の誘いに引っかかってしまう場面です。ここから、「蛇と女の会話」を主題として、「蛇の役割について」、「神と人との関係」についてみていきましょう。
I.蛇の役割―人の心に潜む思いをあぶり出す
この話はとても有名です。キリスト教に関心ない人でも、アダムとイブが禁断の木の実りんごを食べたという話は知られています。そのとき慌ててリンゴを飲み込もうとして喉でつっかえたのが、のどぼとけの始まりという面白い話までありました。ここが、私たちの関心をひくのが、人間のはじめの罪が描かれているからで、伝統的な「原罪」という教えの背景となる箇所です。3章は 「さて」ということばで始まり、新しい展開になります。2章は創造された人間にとって大変重要なことが語られていました。神の声を聞く、整えられた住環境、働く、命令(食に関する許可と禁止)、ふさわしい助け手のこと。3章では神は一旦退かれて、エデンでの地上の生き物との生活が始まった様子が描かれます。
まず、蛇が女に話かけました。1節
「さて蛇は、神である主が造られた野の生き物のうちで、ほかのどれよりも賢かった。蛇は女に言った。『園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当にいわれたのですか。』」
今年はちょうど蛇年。干支では蛇は脱皮を繰り返し、新たな姿に生まれ変わることから、再生や永遠の象徴とされます。そして蛇年生まれの人は知恵深いそうです。イエスも
「蛇のように賢く」(マタイ10:16)
と言われましたし、ここもそうですね。その賢い蛇が女に神について質問をします。「・・・神は本当に言われたの?」 女は
2節「私たちは・・・食べてもよいのです。」
と答えます。神さまそんなケチな方と違う!神のことばを確認しましょう。
2:16「あなたは園のどの木からも食べてよい。しかし、善悪の・・・食べたら死ぬ。」
蛇の発言はたった2回だけですが、ここが賢い蛇の巧妙なセールストークです。蛇の言ったことは間違っています。でも、間違っていていい。目的は話を続けること。まんまとそれに乗せられた女は、神の弁護のつもりで説明していく中で、神のことばの理解の甘さを露呈していきます。2節はOKですが、
3節「『・・・しかし、園の中央にある木の実については、あなたがたはそれを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と神は仰せられました。」
ここに間違いが2つ。2:9節を見ると、園の中央にあるのはいのちの木と善悪の知識の木です。そして、食べていけないのは善悪の知識の木だけ。女の理解は大雑把です。更に、「食べたら必ず死ぬ」を「死ぬといけないからだ」、「触れてもいけない」と自分勝手な解釈を付け加えています。会話の中でこういういい加減な聞き方、私も身に覚えがあります。ごめんですむことならいいですが、ここは「食べたら必ず死ぬ」といういのちに関わることで、正確に聞くべき神のことばでした。蛇の目は怪しく光ったかも。「引っかかった。」すぐに、4~5節を続けます。
「あなたがたは決して死にません。それを食べるとき、目が開かれて・・・神は知っているのです。」
蛇は神のことばを真っ向から否定し、死ぬどころか、目が開かれ、あなたは神のようになって、善悪を知る者となると、吹き込みます。
蛇のことばを聞いた女に「死なないの」という疑いと、「神のようになる」という願望が芽生えます。心の奥に潜んでいた思いが頭をもたげました。そうなると、その木の実は格別においしそうで、賢くしてくれそうに見え、取って食べました。ともにいた夫にも与え、彼は躊躇せず食べました。彼が女に注意しなかっただけでなく、自分も食べたのは、彼も同じ思いを持っていたからです。二人は共犯です。
原罪の教理は、罪がこのときに人間に入り、それを人類すべては受け継いでいるというものです。三浦綾子さんはこの原罪を日本人にわかってもらいたくて、氷点を書きました。三浦さんの本の世界には泥々とした人間関係、男女関係が描かれています。それで、「あなたは信仰者なのに、小説を書くことに痛み、矛盾を感じないか?」と批判されたことがあったそうです。人間の醜い自己中心の欲望が膨らみ、家庭を破壊し、次々と人を不幸にしていきます。こういう人の汚れた部分を見て、人生に絶望したり、結婚をやめたり、不倫をまねる人もでるかもしれないと心配されたのです。彼女は、罪人を救う神の愛を伝えるために、どんな人であっても心に潜む思い、原罪を小説で訴えたかったのです。
ただ、この原罪の教えは、本当は色々な理解があって、私たちの多くは、罪がこのときに人間の心に入った、人は食べたことで罪人になりましたと考えています。しかし、3章を読むと、若干違うのです。罪がこのときに外から入ったのではなく、人の心にははじめから、罪に傾く性質(神と同じになりたい)があって、それに従って食べてしまったというのがここでの言い分です。蛇に託された役割は、そのような人間の本音の部分、心に潜む思いをあぶり出すことでした。
II.神と人との関係―相互の信頼関係
ではなぜ、神は人間をそのように罪に傾く、危うい性質を持つものとされたのか?それはなぜ、神は人をロボットのように造らず、自由意志を持つものに造られた?と同じ疑問です。答えは、神は人間と相互の信頼関係で結ばれたかったからです。人を神の代理人とし、全被造物を治めるように造るのなら、ロボットが確かです。間違いなく、神の意図を遂行します。もしくは、人間であっても完璧な恐怖で心を縛るなら、又自分の意思を持たない奴隷なら、神の意図を完璧に実行できるかもしれません。蛇のトークに引っかかることなく、「お黙り」と一喝するだけです。しかし、神の願われたのは、信頼関係の上に成り立つ世界です。神の最後に手がけた被造物、人間は神の最高傑作です。「一手間かける」ということばがありますが、神は一手間も二手間もかけて、人間を、住まいを、生きる方法も用意されました。そして信頼関係のしるしとして、この木は食べてはいけないという一つの約束を与えられました。神はエデンでの彼らの生活を楽しみにし、人間はこの神を信頼し、約束を守って生きていくはずでした。
しかし、彼らの「神のようになりたい」という心が、神に従う心に勝ったのですね。彼らの食べた「善悪の知識の木」はここにしか出てきません。善悪をわきまえることは、人間の常識と考えられますが、ここでの善悪を知るとは、神のようになることです。私たちは神ではなく、神の声を聞く代理人です。エデン以降、神はご自分の意思、考えを律法という書物や、預言者によって人々に知らせましたが、それを行うかどうかは、人間の自由意志に任されました。結果は、罪に傾く性質を持った人は、神の考えを行うことにいつも失敗し、神はひっきりなしに人間を救うことに引っ張り出されることになりました。だから、聖書には人類の滅びからの救い、民族の救い(解放)、肉体のいやし、疎外された人の社会復帰、魂の救いなどたくさんの救いが書かれているのです。
7節「「こうして、ふたりの目は開かれ、自分たちが裸であることを知った。そこで彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちのために腰の覆いを作った。」
6節「女は食べ…夫も食べた。」
を読んだ後、こう続くと思った人はいませんか。「そして、彼らはコロッと死んだ。食べたら必ず死ぬという命令を守らなかったからである。」 そうならなかったのは、なぜでしょうか。あのことばは脅し?それとも執行猶予でしょうか? 7節は二人は死ななかったけど、彼らの意識に大きな変化が起きたことを教えています。蛇が言っていたように目は開かれましたが、裸であることを知って、恥ずかしいと感じました。同時に不安を感じ、腰の覆いを急いで作りました。二人はありのままの自分の姿を互いに恥ずかしいと思うようになり、今まであった安心感を失ったように思い、体の一部を急いで覆いました。今まで感じたことのない不安な気持ちです。人間のための特別仕様のエデンの生活で感じていた平安や満足や喜びは消え失せ、不安と恥、恐れという感情が心に広がったのです。神との約束を破り、信頼関係を壊したことで、肉体の死(19節)より先に、彼らは神との関係が壊れ、断絶が及ぼす死の色々な面を味わい始めたのです。神の言われた「必ず死ぬ」は実現し始め、現代もそんな世界です。
<おわりに>
開会聖句は
Ⅱコリント4:16「ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」
イエスさまは私たちに福音を伝えられました。神との信頼関係を取り戻して生きることができるというグッドニュースで、それはイエスさまとともに生きる道です。パウロは「私はしたくない悪を行ってしまう惨めな人間だ」(ローマ8章)と嘆きましたが、落胆しない、私は見ゆるところによらず、内なる人は日々新たにされていますと力強く言っています。私たちもそう確信していいのです。私たちも日々イエスと交わることで、神との信頼関係に益々生きています。
新聖歌
開会祈祷後:新聖歌8番、メッセージ後:新聖歌336番
聖書交読
詩編106篇 1~5節
2024年教会行事
1月29日(水)オリーブ・いきいき百歳体操 10時~11時
#57-2957