ラハブの信仰告白

令和5年5月8日(月)より新型コロナウイルス感染症が5類感染症へ移行することに伴い、礼拝での規制を緩和します。具体的には、会衆讃美は全節歌唱する、省略していた聖書交読を復帰し、司会者朗読→会衆朗読を交互に行います。
なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。

メッセージ

<ヨシュア記 2章8~15節>
牧師:砂山 智

開会聖句

サルマがラハブによってボアズを生み、ボアズがルツによってオベデを生み、オベデがエッサイを生み、エッサイがダビデ王を生んだ。

<マタイの福音書 1章5~6節前半>

メッセージ内容

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 メッセージ原稿を公開しました。  

<序論>
・「ヨシュア」はモーセの律法五書に次ぐ律法六書とも言われるそうですが、ヘブル語聖書では、「ヨシュア」から「列王記」までを前預言者と呼びます。本書の内容は、モーセの後継者となったヌンの子ヨシュアに導かれたイスラエルの民が、約束の地カナンを征服し、その土地を分割する過程と、ヨシュアの決別説教からなっています。ヨシュアという名前はヘブル語で「主は救い」という意味で、ギリシア語ではイエスース。つまり、主イエスと同じ名前です。

<本論>
1.ラハブの機転

今朝のラハブの物語は1章と3章の間に挿入された物語(エピソード)のようにも見えます。ヨシュアに率いられたイスラエルの民には数々の難問が待ち受けていました。それはまず、ヨルダン川を東から西に無事に渡りきること。そして、その次は、エリコの町を攻略することでした。エリコというのは、ヨルダン渓谷の南端にあったパレスチナ最古の町で、紀元前7000年にはすでに町が建てられていたそうです。新約聖書にも出てきますが(ザアカイの物語)、ヨシュアの時代のエリコは少し違う場所にあったみたいです。「ヨシュア」2章の最初には、ヨシュアがそのエリコを探らせるために二人の斥候を遣わしたと書かれています。ヨシュア自身も、かつてモーセがカナンの地を探らせるために遣わした十二人の斥候のうちの一人でした。その十二人のうちカレブとヨシュアだけが主のみこころに適う報告をしたことで、カナンに入ることが許されたわけですが(民数13章~)、ヨシュアはその経験から、斥候の役割の重要性をよく認識していたと思われます。ヨシュアから遣わされた二人の斥候は、エリコの町のラハブという遊女の家に入り、そこに泊まります。それは恐らく、潜伏するには最も都合のいい場所だったからだと思うのですが、運悪くと言いますか、エリコの人たちも警戒していたのでしょう。王に通報する人がいたんですね。それで、王はラハブの家に追っ手を遣わします。しかし、ラハブが機転を利かせて、二人を屋上へ上がらせ、そこに積んであった亜麻の茎の中に隠し、追っ手には嘘を告げて二人を守るのです。亜麻の茎は、乾燥させ、石の上で槌でたたいて繊維の材料にしたそうですが、二人の斥候は、ラハブのお陰で命拾いをしたわけです。ただ、彼女はなぜ、そんな危険を冒してまで、彼らを助けたのでしょうか?その理由が明らかとなるのが、今朝、読んでいただいた場面です。

2.ラハブの信仰告白

9~11節までのラハブのことばから、三つのことに注目したいと思います。まず一つは、主(ヤハウェ)という神名が三回も出て来ること。二つ目は、彼女は、この主が、すでにイスラエルの民にカナンの地を与えておられるという、言わば、信仰の告白をしているということ。そして三つめは、「聖絶(ヘーレム)」という神学用語を用いているということです。「聖絶」ということばについては、以前に一度、ご説明したのですが、だいぶん前になりますので、もう一度ご説明しますと、まず、このことばは、私たちが使っている「新改訳聖書」だけで使われていることばで、その意味は次のようになります。
「申命記とヨシュア記を通じて最も重要な思想を表すことば。主の戦いにおいては、敵の人民、所有物はすべて主に帰すものとして、滅ぼし尽くさなければならない。そこには人間的な同情心や、貴重品を壊すのは惜しいという執着心は許されない。もし聖絶の命令に背くなら、イスラエル自身が聖絶の運命を受けなければならない。ただし、鉛、金、青銅、鉄、およびそれで作った器は、「聖絶の物」ではなく、一般的な「聖別された物」であるから、主の宝物倉に納められる」。
ですから、このヘブル語「ヘーレム」は、口語訳聖書では「奉納物」、新共同訳聖書では「滅ぼし尽くしてささげるべきこと」と訳されています。
そして、それらのことばの結論とも言えるのが、11節後半のことばです。

『あなたがたの神、主は、上は天において、下は地において、神であられるからです』(ヨシュ2:11b)。

これはまさしくラハブの信仰告白だと思うんですが、私は今回、彼女のことばを読んで、改めて気づかされたことがありました、それは、この時のラハブのことばには、モーセとか、人の名前は一切出てこない。ただ、主の御名とその御業だけが語られているということです。ラハブも、あの偉大なモーセのことは知っていたでしょう。そして、そのモーセはすでに死んで、ヨシュアがその後を継いだということも。しかし、彼女は、人間の指導者が何をしたとか、誰が後を継いだとか、そんなことは一切関係なく、ただ、神があの出エジプトにおいてなさった驚くべき御業に心を動かされたのです。ある信仰書に、私たちは、今日の伝道が難しいということの理由を様々に論ずるけれども、その最大の理由は、ラハブが「主があなたがたのために葦の海の水を涸らされたこと」と語っているような主の業、主の事実が、私たちの日ごとの歩みの中で認められないからではないか、と書かれていました。そして、「多くの霊的覚醒運動が終わりを告げるのは、人間の介入による」と言われるように。人間がみことばの後ろに退き、みことばに従って生きるとき、主はそこでご自身の栄光をもって働かれる。その時、主の事実が私の生活の中で事実となり、人々はその事実の前に服するのだと。私はその一文を読んで、私たちにとって本当に大切なことは、自分の能力や知恵を発揮することではなくて、神が私たちのうちで業をなしてくださるようにと祈り、そのように歩むことだと思わされました。

<結論>

今朝の説教のタイトルは「ラハブの信仰告白」ですが、ラハブが「あなたがたの神、主は、上は天において、下は地において、神であられるからです」と言ったように、私たちの信仰告白の主語も、神、主でありたいと願います。私たちには、素晴らしい信仰の先輩たちや、牧師や宣教師たち、兄弟姉妹たちが与えられています。しかし、尊敬することは大切なことですけれども、私たちが期待すべきお方は神お一人だけです。神の偉大な御業、ご経綸は、私たち人間の能力や知恵や、祈りや信仰とは一切関係なく、昔も今も、そしてこれからもダイナミックに続いて行くのです。今朝の開会聖句にあるように、神は、遊女のラハブや、異邦人の女であったルツや、或いは3節のタマルや6節後半のウリヤの妻バテシェバと同じように、この私も、そして、あなたも、イエス様の系図の中に入れてくださったのです。それこそが「アメージング・グレース(驚くべき恵み)」ですよね。自分ではなく、他の誰かでもなく、神だけを主語として、今年も歩んで行きましょう。

メッセージ原稿のダウンロード(PDF100KB)

会衆讃美

開会祈祷後:新聖歌3番、メッセージ後:新聖歌9番

聖書交読

詩編103篇 1~22節

2025年教会行事


1月8日(水) オリーブ・いきいき百歳体操 (10時~11時)

#56-2954

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