人間の幸い

令和5年5月8日(月)より新型コロナウイルス感染症が5類感染症へ移行することに伴い、礼拝での規制を緩和します。具体的には、会衆讃美は全節歌唱する、省略していた聖書交読を復帰し、司会者朗読→会衆朗読を交互に行います。
なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。

メッセージ

<創世記 2章4後半~17節>
信徒:K

開会聖句

聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。

<テモテへの手紙 第二 3章16~17節>

メッセージ内容

Youtube動画

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メッセージ原稿を公開しました。
 

<はじめに>  
今月初めに「女性の集い」が堺中央教会で行われました。参加者は100名超え。現地が6割,各教会が3割,各家庭が1割未満です。初回は全員集合でしたが、翌年にコロナが流行したときは、オンラインになり、以後は併用です。少し年齢高めの女性の集いですが、男性も色々裏方で奉仕してくださってますし、オンラインは若い方の助けがあってこそです。今回の証は難病という重荷を負っておられる方でした。パウロが「私は私を強くしてくださる方」によって頑張ってきたのだから、あなたもそうしなさいとテモテを励ましましたが、この方もイエスさまによって強く生かされておられることを感じました。メッセージは今までで最年少の某先生で、「クリスチャンという生き方」について語ってくださいました。それは世の色々な価値観に振り回されることなく、「キリストにつながった生き方」です。福音書に記されているイエスの発言や行動にあらわれている価値観に従っていく生き方で、クリスチャンになったから自然に身につくかと言うとそうではなく、日頃から意識しましょうという勧めでした。さて、今日は新約時代より遙か昔、世界の創造が記された時代に聖書は人間の幸いな生き方についてどう言っているかを読みたい。人間の成り立ちを知ることは、人間の幸いな生き方を知ることだと思います。主題は「人間の幸いな生き方」。1つめは「神の声を聞くこと」、2つめは「神の教えを守ること」です。

<本論>
I.人間は神の声を聞くように造られた

今日は4節の後半からですが、4節自体がガクンと下がっているのに気づきます。4節「これは、天と地が創造されたときの経緯である。神である主が、地と天を造られたときのこと。」 「経緯」という難しいことばがあります。「筋道」とか「いきさつ」という意味です。聖書の「経緯」は「トーレドート」ということばの訳で、創世記の他の箇所では、記録、歴史、系図と訳されています。例えば、

5:1「これはアダムの歴史の記録である」。
6;9「これはノアの歴史である。」
36:9「これは・・・エサウの系図である。」

というように。50章まである創世記は、最初の人アダムからアブラハムを経てヨセフまで、10箇所で区切られ、つながっています。そして、

4節の「これは・・・経緯である」

とい文章は、1章から2章3節までの締めくくり(最後)という考えと、ここから始めますという2つの考えがあります。私はこれまでの締めくくりと考えましたので、

4節の後半「神である主が、地と天を造られたときのこと。」

から始めます。
4節を注意して読むと、何か言葉遣いが変わってることに気づきませんか。4節をさかいに、「天と地」は「地と天」にひっくり返り、「神」が「神である主」になっています。日本語ではわかりにくいですが、
原語では「エロヒームー神」が「ヤーゥエー神である主」になりました。また、5節以降の文章の表現も変わり、著者の目線は、世界全体を見渡すところから地上目線になり、焦点は人間に当てられます。神さまは擬人化され、土をこねたり、人間と会話をし、散歩もされます。

さて、5節の地上の様子ですが、まだ草も灌木(低木)もありません。その理由は、神である主がまだ雨を降らせてなかったから、また、大地を耕す人間もまだいなかったからだと。これは面白いですね。神さまの造られた世界は、人間と働くことがセット。「人間ははじめに労働ありき」なんです。もちろん、エデンでの労働は楽しいものでしたけど。そして、雨は降ってなかったけど、地は地から湧き出る豊かな水で潤っていたので、その湿り気のある土で、人間が造られます。

7節「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻の穴にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。」

大地のちり、土は原語で「アダーマー」、人間は「アーダーム」と言います。アダムという名は、「アダーマーから造られたアーダーム」という語呂合わせから生まれた呼び名です。ここでは人と訳されてます。
他の生き物も同じように土で造られています(19節)が、この吹き込まれたいのちの息が、人間と他の生き物と決定的に違う点です。この人間だけにあるいのちの息の存在は、レントゲンにうつりません。肉眼では決して見えないのですが、胃が痛くなって、胃の存在を意識するように、痛むことで存在を知らせます。ホスピスで行われている終末期のケアは、人間の4つの痛みに対処しようとします。まず、身体的苦痛、そして、精神的苦痛、社会的苦痛、そして霊的苦痛です。今までそんなに意識しなかった生きることの意味や死後のことなどを知りたいという霊的痛みです。患者の中には無宗教の方もいますから、魂の痛み(スピリチュアルペイン)とか言われてます。霊の部分こそ、このいのちの息で、人間を特徴づけるものです。このことは皆さんよくご存じだと思うのですが、今回、このいのちの息が鼻から吹き込まれたことから、さらに深められたことを分かち合いたいと思います。

「創世記を味わう」という本の中で、著者の先生が鼻にいのちの息を吹き込まれたことで、人は耳が開かれたと考えられると言っておられます。

詩篇40:6に、「あなたは私の耳を開いてくださいました。」

という一節があります。「開いた」の脚注に「掘って」とありますので、原語どおりに訳すと「あなたは私のために耳を掘られました。」となります。人間は神が鼻から息を吹き込まれることで、耳が掘られた、耳が開かれた、神の声を聞くことができるようになったと考えられるのです。それで思い出したことがありました。何度か耳の調子が変で、鼓膜がどうなってしまったのか、こもったというかくぐもったというか、聞きにくいときに、耳鼻科で鼻からシューッと空気を送られる治療を受けたら、ちゃんと聞こえるようになったことがありました。なんか似ています。鼻から息を吹き込むと、聞こえるようになるんですね。他の生き物も耳があって聞くことができます。犬や猫を飼った方はよくわかると思いますが、彼らは飼い主の誰かが帰ってくる足音にいち早く反応して、玄関で出迎えます。動物は人間より優れた聴力を持っています。でも、神の声は聞けない。神は霊です。人間も鼻から息を吹き込まれることで、霊的な生きものになりました。だから、神の声を聞くことができるのです。7節の記事は、土で造られた人間が最後に鼻からいのちの息を吹き込まれたことで、神と同じ霊的な生きものとなったことと、被造物の代表として神の声を聞くことができる生きものになったということを、示しているのではないでしょうか。

II.人間は神との約束を守るように造られた

では、次に考えることは、最初に聞いた神のことばは何だったのかです。それは16節にあるのですが、その前に4つの川にふれておきたいと思います。

10~14節「一つの川がエデンから湧き出て、園を潤していた。それは園から分かれて、4つの源流となっていた。第一のものの名はピション・・・、ギホン、ティグリス、ユーフラテスである。」

後ろの2つは文明の発祥の地として有名なので、他の川は今のどの川だろうと推測したいのですが、当時の地形はこの後のノアの大洪水でガラッと変化したので、今の地図を見てもわからないそうです。このエデンから流れ出る川のイメージはエゼキエル47章の神殿から流れる川や、ヨハネの黙示録22章の神の都の大通りを流れるいのちの水の川を連想させます。両方とも、川の流れるところにはいやしと食物があります。もしかしたら、エデンから流れ出る川の流れに沿って、肥沃な土地が広がり、人、民族が増え、神を中心とした文明が生まれることが、神の最初の計画であったのかもしれません。しかし、それは挫折しました。エデンは閉じられたからです。

では、耳の開かれた人間に最初に伝えられた神のことばです。

16~17節「神である主は人に命じられた。『あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。』」

それまでに、神と人のあいだで会話があったかもしれませんが、聖書に記された人が聞くべき最初のことばはこれです。神はエデンに、見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木と、園の中央にいのちの木と善悪の知識の木を生えさせました。そしてどの木からでも好きなように食べて良い。ただ善悪の知識の木はだめ、食べたら必ず死ぬことも知らせました。あれも食べてよし、これも食べてよしという多くの許可と、これはだめという一つの禁止が、神と人との間に交わされたのです。「このことだけは守ってね。」という関係が生まれました。この関係を守ることが、人がエデンで生きていく条件でした。エデンは人のために神が備えられた場所、わざわざ外から連れてこられた場所です。エデンは人間が幸せに生きることができる園でした。このような人間の成り立ちを知りますと、人間の幸いは神の声を聞き、約束を守ることにあることがわかると思います。しかし、神と人との関係は切れ、人間は神のことが全くわからなくなりました。だから、その回復(救い)のために聖書が書かれ、ずっと保たれ、私たちは今も聖書を読み続けているのです。

<おわりに>

今日の開会聖句は

テモテⅡ3:16~17「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。・・・。」

堅い文章ですが、簡単に言えば、聖書は神のかたちを見失った人間が本当の姿に回復するために役立ちますということだと思います。先週は宣教の民についてのお話でしたが、MB信仰告白には、他に平和の民、聖書の民だと書かれてますので、聖書の民についてどう書いているかを紹介して終わります。 聖書の性格は私たちを変革するものです。―神についての知識を得るものではない。 聖書の土台はイエス・キリストです。―イエスを通して神の価値観は表されている。 聖書を読むのは個々人で、また教会の人々とともにです。ーそれは聖霊と適切な方法(文脈重視)によって。 今月もあと1週間。何かと忙しい時期ですが、聖書のことばを通して神は語りかけられますから、神の声に耳を傾ける時間を大切にして歩みましょう。

メッセージ内容のダウンロード(PDF95KB)

新聖歌

開会祈祷後:11番、メッセージ後:259番

聖書交読

詩編98篇 1~9節

2024年教会行事

11月27日(水)オリーブ・いきいき百歳体操 10時~11時 

#56-2948

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