なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。
メッセージ
<テモテへの手紙 第一 1章1~12節>
牧師:砂山 智
開会聖句
私の子テモテよ。以前あなたについてなされた預言にしたがって、私はあなたにこの命令に委ねます。それは、あなたがあの預言によって、信仰と健全な良心を保ち、立派に戦い抜くためです。
<テモテへの手紙 第一 1章18節>
メッセージ内容
Youtube動画
公開が遅れて申し訳ありません。 メッセージ動画公開:11/10 AM 2:04
メッセージ原稿を公開しました。
・パウロとテモテの出会いは、「使徒の働き」16章に記されています。パウロはその直前に、それまで苦楽を共にしてきたバルナバと喧嘩別れしてしまいます。前回の伝道旅行の際にエルサレムの自分の家に帰ってしまったマルコを連れて行こうとするバルナバと激しく対立したのです(使徒15:37~39)。バルナバはパウロが回心した時からずっと彼を支え続けた、まさに盟友と言えるような存在でしたので、この喧嘩別れはパウロにとって大きな痛手となったことでしょう。そんな時に出会ったのがテモテという若者でした。
<本論>
1.出会い
「使徒」16章1~3節をご覧ください。
『それからパウロはデルベに、そしてリステラに行った。すると、そこにテモテという弟子がいた。信者であるユダヤ人女性の子で、父親はギリシア人であった。彼は、リステラとイコ二オンの兄弟たちの間で評判の良い人であった。パウロは、このテモテを連れて行きたかった。それで、その地方にいるユダヤ人たちのために、彼に割礼を受けさせた。彼の父親がギリシア人であることを、皆が知っていたからである』(使徒16:1~3)。
リステラというのはパウロたちが第一次伝道旅行でも訪れた町で、その時にテモテの母(ユニケ)は信仰に導かれたのだと思われます。そして、テモテは、この後、パウロの第二次伝道旅行、第三次伝道旅行に同行し、よき協力者となります。彼は、パウロがローマで捕らえられ、牢に入れられていた時も、側近くにいてパウロを助けたようです。その後、パウロは、一旦、釈放され、今朝の3節にあったように、マケドニアへ行くのですが、その前にエペソに立ち寄り、そこにテモテを残してエペソ教会の指導に当たらせます。今朝の「Ⅰテモテ」は、パウロがマケドニアからエペソにいるテモテに宛てて書いた手紙と考えられています。これは伝承ですが、テモテはエペソの教会の監督になり、後に殉教したということです。
2.エペソ教会の異端
さて、パウロは、「私の子テモテよ」と呼んでいますが、それはもちろん、今朝の3節にあったように『信仰による、真のわが子テモテ』ということで、実の息子ではありませんでした。けれども、パウロにとっては、ある意味、血のつながった息子以上の存在だったと思います。だからパウロは彼にエペソ教会のことを託したんですね。パウロにとってエペソの教会というのは、特別な思い入れのある教会だったようです。それは、「使徒」20章に記されているパウロの決別説教を読めばよく分かります。何度読んでも心に迫って来るものがあるんですが、その中で彼は、自分が去った後、凶暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て、群れを荒らしまわること。そして、あなたがた自身の中からも、色々と曲ったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者が出て来るということを告げています。それが現実となったのが、今朝の3~4節に記されていたことです。そして、それは、この後の、4章前半や6章でも語られます。そこから窺い知れることは、その異端、曲った教えというのは、結婚を禁じたり、断食を命じたりというような禁欲的な教えであったということ。そして、6章ではそれとは正反対なんですが、衣食があるだけで満足できずに、金持ちになりたがる人たちがいたということです。しかし、パウロは、
4章で『神が造られたものはすべて良いもので、感謝して受けるとき、捨てるべきものは何もありません』(Ⅰテモ4:4)と述べ、6章では、『金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです』(同6:10a)
と述べて、それぞれの誤りを指摘しています。今、お話ししたような異端的な教えは、極端な教えと言ってもいいでしょう。禁欲か、強欲か。まさに両極端です。そして、私たちの信仰の世界においては、往々にして、そんな極端な教えに囚われてしまう方々もおられるようです。これが絶対的な正義だ!みたいな。もちろん、はっきりとした答え、これが真実だと言えることもあるでしょう。例えば、15節。
『「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです』(同1:15)。
しかし、困ったことに、私たちには、そのような普遍的な真実よりも、むしろ、果てしない作り話と系図に心寄せるとありましたように、何か議論を引き起こすことの方に心奪われてしまうような性質があるように思います。
3.健全な教え
今朝の「Ⅰテモテ」には『健全な』ということばが何度も出てきます。5節や10節、そして、開会聖句の18節もそうです。この手紙のキーワードと言ってもいいでしょう。それでは、パウロが言うところの「健全」というのは、どのような意味なのでしょうか?この「健全」と訳されているギリシア語「フギアイネン」の本来の意味は、「健康を与える」ということだそうです。「健康」と聞いて、私が真っ先に頭に思い浮かべたのは「バランス」ということでした。よく、「何々健康法」というのを耳にすることがあります。納豆が健康にいいと聞けば、納豆ばっかり食べるとか、バナナが健康にいいと聞けば、バナナばっかり食べるとか…。しかし、そのようなことは、やっぱりよくないんですね。一番大切なことは、「バランスのとれた食生活」なんです。それと同じように、私たちの信仰における健全さということも、やっぱり「バランス」ということが大切なのではないでしょうか。しかし、一口に「バランス」と言っても、難しいよね、と思う方もおられるでしょう。これは、敬愛する武田信嗣先生がよく言っておられたことですが、私たちがバランスのとれた信仰を保つためには、両極端を知る必要があると。両極端を知らなければ、結局、バランスがとれているかどうかも分からないんです。その意味では、両極端を知るということには大切な意義があると言えるでしょう。
<結論>
今朝のタイトルは「私の子テモテよ」ですが、テモテという名前は、正確にはティモテオスで、それは二つのギリシア語ティメーとテオスから来ているそうです。その意味は「神に対する崇敬」。すごい名前ですが、「名は体を表す」と言う通り、テモテは、その名前にふさわしい使命をパウロから委ねられたのです。それは、今、お話ししたように、極端で異端的な教えに振り回されていたエペソ教会の人たちを、健全でバランスの取れた信仰へと導くという。今朝の開会聖句でパウロは、「私はあなたにこの命令を委ねます」と言っていますが、この「委ねる(パラティテスタイ)」ということばは、何か貴重なものを誰かに安全に保管してもらうことを意味することばだそうです。例えば、大金を銀行に預けるとかですね。しかし、若いテモテにとっては、パウロからのそのような命令は、相当な重荷(プレッシャー)となったでしょう。彼はパウロとは違って、おとなしく、少し臆病なところのあった青年でしたから。そんなテモテに、パウロは自分のことを例に挙げて、次のように言って励ますのです。
『キリストは私を忠実な者と認めて、この務めに任命してくださったからです』(Ⅰテモ1:12b)。
それは、この私も、本当は忠実な者などではなく、この務めにふさわしい者でもなかったけれども、キリストはそんな私を忠実な者と認めてくださり、この務めに任命してくださったんだ、ということですね。だからパウロは、その後、私は以前には、神を冒涜する者、迫害する者、暴力をふるう者でしたと、自らの過去の罪を述べた上で、私はその罪人のかしらですと告白するんですね。そして、私の子テモテよ。あなたは若いし、自分でもその務めにふさわしいとは思えないかもしれないけれども、この私がそうであったように、キリストご自身があなたを忠実な者と認めて、この務めに任命してくださったのだから、勇気を出しなさいと。私たちも、ええかっこしいのことばではなく、ありのままの自分を見つめた時に、本当に「私は罪人のかしらです」と告白する以外にないような者ですが、そんな者を忠実な者と認めて、この務めに任命してくださったキリストがともにいてくださいますから、今週も前を向いて歩んで行きましょう!
会衆讃美
開会祈祷後:新聖歌376番、メッセージ後:新聖歌221番
聖書交読
詩編95篇 1~11節
2024年教会行事
11月6日(水) オリーブ・いきいき百歳体操 (10時~11時)
#56-2945
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