みこころにしたがった願い

令和5年5月8日(月)より新型コロナウイルス感染症が5類感染症へ移行することに伴い、礼拝での規制を緩和します。具体的には、会衆讃美は全節歌唱する、省略していた聖書交読を復帰し、司会者朗読→会衆朗読を交互に行います。
なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。

メッセージ

<列王記 第2 20章1~14節>
牧師:砂山 智

開会聖句

何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。

<ヨハネの手紙第一 5章14節>

メッセージ内容

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 メッセージ原稿を公開しました。  

<序論>
・今朝の物語の主人公である南ユダの王ヒゼキヤは、聖書に登場する数多くの王の中でも、とりわけ名君として知られています。しかし、そんなヒゼキヤに、預言者イザヤを通して死が宣告されます。この時、彼は39歳という働き盛りの年齢でした。ですから、志半ばと言うか、自分の国の行く末を想って随分と心残りであったことでしょう。けれども、先程、読んでいただきましたように、主は彼の切なる願いを聞かれて、その病を癒し、寿命を15年も延ばしてくださるのです。今朝は、このヒゼキヤの物語を通して、「みこころにしたがった願い」と題して、皆さんと一緒にみことばに耳を傾けてみたいと思っています。

<本論>
1.ユダの危機と神の介入

ヒゼキヤがどんな信仰者であったかということは18章3節にある通りです。

『彼は、すべて父祖ダビデが行ったとおりに、主の目にかなうことを行った』(Ⅱ列18:3)。

聖書で善い王様の基準とされるのは、あのダビデなんですが、次の4節を見ると、ヒゼキヤは、異教の神々だけでなく、モーセが荒野で作って民に拝まれるようになっていた青銅の蛇(民21:5~9)さえも粉々に砕いたと記されています。それは民が青銅の蛇をネフシュタンと呼んで偶像のように拝んでいたからでした。この一事を見ても、ヒゼキヤの信仰がどれほど徹底したものであったかということが分かります。しかし、

『ヒゼキヤ王の第十四年に、アッシリアの王センナケリブが、ユダのすべての城壁のある町々に攻め上り、これを取った』(同18:13)。

アッシリアの脅威が迫って来るのです。この時代のアッシリアの王は、前回お話ししたサルゴン二世の後を継いだセンナケリブでした。彼は18万5千人もの大軍勢を率いてユダに攻め寄せて来ます。平行記事の「Ⅱ歴代誌」32章にも、その時の様子が描かれていますが、これらのことは、先週ご紹介した「地図で学ぶ聖書の歴史」によると、旧約聖書の中で、部分的にではありますが、他のテキストや考古学的証拠によって立証されうる最も明確な出来事だそうです。
ただ、この時の危機は、主の奇跡的な介入によって何とか脱することができます。それは19章の最後の部分を読んでいただければ分かります。この、一夜にしてアッシリアの陣営の18万5千人がみな死体となっていたという出来事は、一般には、野ねずみが媒介した疫病が蔓延して、アッシリアの軍勢を全滅させたのではないかと考えられているそうです。仮に、もしそうであったとしても、アッシリアの側だけに疫病が蔓延したということは、神の奇跡と言えるのではないでしょうか。

2.ヒゼキヤの祈り

さて、今朝の箇所の冒頭に「そのころ」とありましたが、これは6節のみことばから推察すると、今、お話ししたセンナケリブのエルサレム攻略直前のことであったと思われます。ですから、時間的には後戻りすることになってしまうのですが、聖書では、こういうことが、時々あります。年代で言うと紀元前701年頃の話です。ここで預言者イザヤが登場しますが、イザヤの父アモツはヒゼキヤの四代前の王アマツヤの兄弟です。ですから、イザヤは王宮に仕える預言者として、直接、王に助言や忠告を与えることのできる立場にいたのでしょう。ただ、そうは言っても、彼がヒゼキヤに告げた1節のことばは、王への忖度どころか、なんの気遣いもない、ド直球とも言えることばでした。

「主はこう言われる。『あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。治らない。』」』(Ⅱ列20:1b)。

今は、ガンの場合でも、本人にはっきりと告げる場合がほとんどだそうですが、所謂、「余命宣告」がなされるような場合には、医師の側にも相当なプレッシャーがあると思います。患者の多くは、医師の一言やちょっとした態度で、絶望したり、希望を持ったりするわけですから。まぁ、イザヤは医者ではないんですが、「あなたは死ぬ。治らない」というのは…。ヒゼキヤは「いくらなんでも、それはないでしょ!」と叫びたかったのでないでしょうか。それで、彼は顔を壁に向け、主に祈ります。

『「ああ、主よ、どうか思い出してください。私が真実と全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたの御目にかなうことを行ってきたことを。」ヒゼキヤは大声で泣いた』(同20:3)。

このヒゼキヤの祈りとその時の姿を見たら、誰もが「そらそうやよなー」と同情を禁じ得ないのではないでしょうか。「あの素晴らしい信仰者ヒゼキヤ王が、なんで?」と。ところが、もっと不思議なことが起きます。それは、ヒゼキヤの訴えを聞かれた主が、すぐに前言を撤回して、「あなたを癒して、寿命をもう十五年延ばす」と告げられ、そして、それだけでなく「今、攻め寄せてきているアッシリアの軍勢からあなたとこの都を守る」と約束してくださるのです。これは、ヒゼキヤの祈りがみこころにしたがった願いだったからだと思うのですが、どうなんでしょうか?

3.「イザヤ」38章

まず一つはっきりと言えることは、私たち人間が神のみこころを知ることは不可能だということです。何か身も蓋もない言い方ですが、本当にそうですよね。しかし、そうは言っても、私たちは、そのみこころの一部を知ること。もっと正確に言えば、これがみこころだと信じて行動を起こすことはできます。だいぶ以前に「みこころ症候群」という話をした中でそんな話をさせてもらいましたが、それでは、今朝のヒゼキヤ王の祈りはそんな祈りだったかというと…。何か違うような気がしますよね。3節にあった彼の祈りからは必死さは伝わってきますが、とてもそんなふうには見えないです。確かに、今朝の箇所だけを読むとそうなんですが、実は、この物語には平行記事がありまして、それは「イザヤ」の38章なんです。そこには、この時のヒゼキヤ王の祈りがより詳しく記されています。ただし、それはヒゼキヤ王が病から回復したときの祈りなんです。その前半と後半で彼の祈りは一変します。後半の17節。

『ああ、私の味わった苦い苦しみは平安のためでした。あなたは私のたましいを慕い、滅びの穴から引き離されました。あなたは私のすべての罪を、あなたのうしろに投げやられました。よみはあなたをほめたたえず、死はあなたを賛美せず、穴に下る者たちはあなたの真実を待ち望みません。生きている者、ただ生きている者だけが、今日の私のように、あなたをほめたたえます。父は子らにあなたの真実について知らせます。主は私を救ってくださる。私たちは生きている日々の間、主の宮で琴を奏でよう』(イザ38:17~20)。

<結論>

ヒゼキヤは、イザヤから死の宣告を受けた時、「ああ、主よ、どうか思い出してください。私が真実と全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたの御目にかなうことを行ってきたことを」と必死に訴えましたが、病が癒されたとき、そうではなかったということに気がついたんです。彼は、この私が、真実と全き心をもって、主の御前に歩み、主の御目にかなうことを行ってきた、とずっと思い込んでいたのですが、実はそうではなくて、主ご自身が、その真実と全き心とをもって、彼のすべての罪を赦し、滅びから救ってくださった。だから、自分は今日まで生きることができた、ということに気づいたのです。私たちの思考回路は、自分の信仰がもっと素晴らしくなればとか、もっと熱心に祈ればとか、自分や誰かの信仰の力で神は願いを聞いてくださるかもしれないと、すぐそんな風に考えてしまうのですが、それは結局、先週、お話しした「ご利益信仰」と同じだと言えるでしょう。みこころにしたがった願いとは、そんな人間の願いや祈りに頼るのではなく、イエス様が、あの「主の祈り」の初めに、主の御名が聖なるものとされますように、御国が来ますように、みこころが天で行われるように地でも行われますようにと祈りなさい、と言われたように祈ることだと思います。最後に、「マタイ」6章33節を読んで終わります。

『まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます』(マタイ6:33)。

メッセージ原稿のダウンロード(PDF102KB)

会衆讃美

開会祈祷後:新聖歌110番、メッセージ後:新聖歌196番

聖書交読

詩編92篇 1~9節

2024年教会行事

10月16日(水) 都合によりお休みとなります。

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