生きることはキリスト

令和5年5月8日(月)より新型コロナウイルス感染症が5類感染症へ移行することに伴い、礼拝での規制を緩和します。具体的には、会衆讃美は全節歌唱する、省略していた聖書交読を復帰し、司会者朗読→会衆朗読を交互に行います。
なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。

メッセージ

<ピリピ人への手紙 1章12~21節>
枚方キリスト教会:中村 宣子

開会聖句

私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。

<ピリピ人への手紙 1章21節>

メッセージ内容

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 メッセージ原稿を公開しました。  

<序論>
・ピリピ人への手紙は、パウロが「喜び」あるいは「喜ぶ」と言う言葉を何度も使っていることから、「喜びの書」とも言われています。ですから、それほどまでの「喜び」という言葉を繰り返すほど、パウロの置かれた環境は、申し分のないものだったのかと言いますと、実はそうではありませんでした。エルサレムで迫害を受け、カイザリアで2年間幽閉された後、ローマに送られ、獄中生活を送っていたからであります。しかし、私たちは、彼がたとえその自由のない、寂しさとつらさの中に置かれていたとしても、この手紙の文面から、彼のピリピ教会の皆さんに対する、喜びの内にある愛溢れるメッセージを知ることができるのであります。その中でも、パウロが切に願っていること、それはピリピ教会の皆さんと分かち合いたいと願っていること、

20節「私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。」
21節「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。」

と語った、私にとって生きるそのものがキリストであり、私の願いは自分の身によってキリストがあがめられることだと語る、そのパウロのメッセージから、「生きることはキリスト」と題して、パウロの切実な信仰告白から、今キリスト者とされた私たちにとって、「生きる」とは何かを、3つの点をもって見ていきます。

<本論>
1.キリスト・イエスのしもべである

私たちは、キリスト・イエスのしもべであると言うことであります。
今生かされている私たちは、主なるイエス・キリストの十字架上における贖いによって罪赦されて、キリスト・イエスのしもべとして生きる人生が与えられていると言うことであります。このピリピ人への手紙の書き出しを見ますと、1節ですが、

「キリスト・イエスのしもべである、パウロとテモテから、ピリピにいる、キリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、ならびに監督たちと執事たちへ。」

とあります。パウロは、弟子の一人、テモテを含め、自分のことを、「キリスト・イエスのしもべである、パウロとテモテから~」と紹介しています。ピリピ教会の皆さんに対しては、「~キリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、ならびに監督たちと執事たちへ。」と、なんとなく似たような表現に聞こえますが、自分たちに対しては、完全にキリストの支配下にあると言うことが、強調されている表現をして、自らの位置づけを明確に示しているように思えます。ではパウロがこれほどまでに自分のことを、「しもべ」あるいは「奴隷」であると明確にした意図は何なのでしょうか。私たちは、「しもべ」と言う言葉を聞くと、あまり良いイメージがないかと思います。「奴隷」と言う言葉に言い換えられたなら、なお一層抵抗があるのではないでしょうか。なぜなら、主人がいて、その主人にたとえ自分の意志に反することであっても、従わなければならない者と捉えるからであります。エペソ人への手紙2章の前半を見ますと、私たちのかつての状態がどうだったのかを知ることができます。

1節「さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、」
「かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。」
「私たちはみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」

私たちはまず、自分の背きと罪の中に死んでいた者である、またそれらの罪の中にあってこの世の流れに従っていた者である、また空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいた者である、ですから、生まれながら御怒りを受けるべき者である、神から遠く離れた者の姿が、こんなに罪にまみれて死んだ者であるようならば、一体どこに希望があり、どこに救いがあるのでしょうか。罪を罪とも知らずに生きている、それは今も休むことなく働いている「空中の権威を持つ支配者」つまり、なんとも恐ろしいサタン、悪魔に従って生きている、サタンの支配下にあったわけであります。そんな背きの中に死んでいた私たちを、本当の意味で生かしてくださったのが、イエス・キリストの身代わりの十字架であります。

エペソ人への手紙2章5節に「~キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。」

とありますように、赦されるはずのない罪人のために、身代わりとなって十字架にかかってくださったイエス・キリストによって、その罪を赦し、本当の意味で生かしてくださった、それこそ、一方的な神の恵みだと言うことであります。それは、サタンの支配下にあった者が、キリストによって、贖い出され、神の子とされた、つまり神のもの、神の所有とされた、神と言う主人に完全に属するゆえに、「キリスト・イエスのしもべ」として生きるところに、本当の幸いがあり、喜びがあると言うことを、私たちはこれからも信じて、私たちもそれぞれの残された人生が、なお一層、主にあるものとさせていただこうではないでしょうか。

2.どんな場合にも恥じることがない

どんなことがあっても、何事においても、恥じ入ることがないと言う信仰であります。

20節「私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。」

と言っています。パウロは、第二回伝道旅行において、このピリピの町に同行者である弟子の一人シラスと共にやってきました。そこで、紫布の商人であったリディアという女性と出会い、パウロの語ることに心開かれた彼女は、家族と共に救われるのですが、パウロがその後、占いの霊にとりつかれた女性を助けたことで、彼女を利用していた人たちから、もうけがなくなったと言うことで訴えられ、結果何度もむちを打たれて捕らえられてしまうのであります。パウロが福音を携えていく所どころで、救われる人たちもいましたが、常にそこには困難が伴っていました。牢獄に入れられたり、むち打たれたり、盗賊に遭ったりとありとあらゆることがあったと、コリント人への手紙第二の11章の後半に記されています。しかし、ピリピ人への手紙1章の12節を見ますと、

「さて、兄弟たち、私の身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったことを知ってほしいのです。」

と言っています。パウロ自身が今回、獄に捕らえられたことも、福音がとどまるどころか、前進することになっていると言っているのであります。パウロが投獄されたことで、主なる神様から確信が与えられ、勇敢に福音を伝えていった者たちが起こされたからであります。しかし、実はその中には、善意や純真な動機からではなく、ねたみや争いをもって、また党派心をもってキリストを宣べ伝えた人たちもいたのであります。自分たちがあがめられたい、自分たちの方が神様よりも大事であると言う思いをもって、伝道したと言うことであります。パウロにとって、それは喜ばしいことだったのでしょうか。投獄された苦しみに、さらに加えられた苦しみだったと考えられます。

18節「しかし、それが何だというのでしょう。見せかけであれ、真実であれ、あらゆる仕方でキリストが宣べ伝えられているのですから、私はそのことを喜んでいます。~」

とパウロは、最終的に喜んでいるのであります。どんなに苦しいことであったか、その苦しみの中で、「喜び」を得ているのであります。私たちの身の回りで起こる様々な事柄の中で、どうやっても、「喜べない」ことがあるかと思います。理不尽なことを受けたり、予期もしないことが起こった時、私たちは、「どうして」と訴えてしまうかと思います。「あの時、ああすれば良かったのか」「こうすれば、こんなことにならなかったのか」などと考えてしまうことがあるかもしれません。私たちは一体どうやってそこから「喜び」を見出すことができるのでしょうか。パウロは、18節の最後の部分で、

「~私はそのことを喜んでいます。そうです。これからも喜ぶでしょう。」

と言った後に、

19節「というのは、あなたがたの祈りとイエス・キリストの御霊の支えによって、私が切に期待し望んでいるとおりに、このことが結局は私の救いとなることを知っているからです。」

と言っています。投獄されたわけですから、死の危険にもさらされているパウロではありますが、自らの危険よりも、ピリピ教会の人たちの祈りや御霊の支えによって、彼の切なる願い、自らの投獄の解放や死の危険からの救い、教会内による問題の解決、そうしたことからの解放ではなく、彼が切に期待し望んでいること、それは何よりも、「~私の身によってキリストがあがめられること」なら、どのような場合でも、決して恥じ入ることないと言う信仰であります。私たちは、たとえ自分の身が危険になろうとも、自分のしようとしていることにねたみや争いが起こって、さらに苦しみが与えられたとしても、そのことを悔やんだり、悩んだりするのではなく、神様はそのような中にも必ずや栄光を現わしてくださると委ね、たとえどんな場合にも、求める思いは、「キリストがあがめられること」その一心で生きる、そのようなキリスト者、クリスチャンとされようではないでしょうか。

3.大胆に語ることによって

福音を大胆に語ることであると言うことであります。
それも「いつものように」であります。

20節「私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。」

「~今もいつものように大胆に語り、~」とありますが、何を大胆に語るのでしょうか。パウロが獄に捕らわれたことが、キリストのためであると確信した人たちの中には、純真な心からではなく、党派心から御言葉を伝えた人たちがいましたが、16節を見ますと、

「ある人たちは、私が福音を弁証するために立てられていることを知り、愛をもってキリストを伝えていますが、」

と、善意をもって、愛の心をもって、キリストを伝えた人たちは、パウロが福音を弁証することのために立てられていることを知っていました。「福音を弁証する」パウロは、この1章で、特に「福音」と言う言葉を強調して語っています。5節「あなたがたが最初の日から今日まで、福音を伝えることにともに携わってきたことを感謝しています。」

7節の途中から、「~あなたがたはみな、私が投獄されているときも、福音を弁明し立証しているときも、私とともに恵みにあずかった人たちであり、~」
12節「さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったことを知ってほしいのです。」
16節の途中から、「~私が福音を弁証するために立てられていることを知り、~」
27節「ただキリストの福音にふさわしく生活しなさい。~」

と、「福音」を確かなものとして証明すること、これはパウロだけではなく、今を生きるキリスト者とされた私たちにも委ねられていることであります。すでに贖い出され、神の子として生かされている私たちは、生きた主の証人であります。選ばれた証人である私たちは、イエス・キリストこそ、救い主であり、その名によってのみ、罪の赦しが受けられることを伝える使命があります。神様を大胆に証ししていく人生は、特にこの日本において、確かに困難が伴い、勇気も入り、戦いがあるかもしれません。たとえ人々の反応に意気消沈し、ためらってしまうことがあったとしても、私たちはお互い、兄弟姉妹の祈りとイエス・キリストの御霊の支えをいただいて、「いつものように」それがいつもの私であるという姿勢を貫いて、主にあって大胆に主を証していく、そのようなクリスチャン人生を、これからも歩ませていただこうではないでしょうか。

<結論>

20節「私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。」
21節「私にとって生きることはキリスト、死ぬことも益です。」

今見えることころでは、何不自由なく平和だと思える中にあっても、聖書に記されているとおり、この世の終わりが近づいています。主なる神様は、その中にあって、ご計画のうちに、先に救われた私たちをそれぞれの場に遣わそうとされています。あの人のために、この人のために、まだ救われていない家族のためにであります。「私にとって生きることはキリスト、死ぬことも益です。」私たちにとって、「生きる」とはどういうことでしょうか。私のどこを切られても、私ではなく、内にいますキリストしか出てこない、生きるそのもの、生かされているそのものがキリストである、そのような人生であります。たとえ、人々に関心がなく、拒否されるようなことがあって、ためらってしまうことがあったとしても、人の目が気になって声を上げる勇気がなかったとしても、予期せぬ問題で苦しみが与えられたとしても、キリスト・イエスのしもべとされていることが、どんなに大きな恵みであるかを日々教えられて、これからもさらにその恵みに強められて、この身をもってキリストを告白し続ける人生を歩む、そのような群れとされましょう。

メッセージ原稿のダウンロード(PDF143KB)

会衆讃美

開会祈祷後:新聖歌110番、メッセージ後:新聖歌257番

聖書交読

詩編86篇 1~11節

2024年教会行事

9月18日(水) 都合によりお休みとなります。

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