パウロの生き様

令和5年5月8日(月)より新型コロナウイルス感染症が5類感染症へ移行することに伴い、礼拝での規制を緩和します。具体的には、会衆讃美は全節歌唱する、省略していた聖書交読を復帰し、司会者朗読→会衆朗読を交互に行います。
なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。

メッセージ

<使徒の働き 20章17~35節>
牧師:砂山 智

開会聖句

このように労苦して、弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを、覚えているべきだということを、私はあらゆることを通してあなたがたに示してきたのです。」

<使徒の働き 20章35節>

メッセージ内容

Youtube動画

 

公開が遅れて申し訳ありません。 メッセージ動画公開:8/18 AM 2:10
 


 メッセージ原稿を公開しました。  

<序論>
・今朝の箇所も、前回と同じく、パウロの第三次伝道旅行での出来事です。前回の説教でお話ししましたように、パウロは三年間、エペソに腰を据えて伝道に励みます。そして、

『これらのことがあった後、パウロは御霊に示され、マケドニアとアカイアを通ってエルサレムに行くことにした。そして、「私はそこに行ってから、ローマも見なければならない」と言った』(使19:21)。

ただ、パウロは、その後も、なおしばらくアジア(エペソを中心とする)にとどまっていたようです。19章後半を見ると、エペソにあったアルテミス神殿にまつわる大騒動などにも巻き込まれたりしています。その後、パウロは御霊に示された通り、トロアスから陸路や海路をつたってミレトスという町にまでやって来るのですが、そのミレトスにエペソ教会の長老たちを呼び寄せるんです。ミレトスはエペソから60キロほど離れた港町でしたが、そこから出航する連絡船は、通常、3~4日ほどは停泊していたそうで、今朝の箇所の冒頭にあったように、エペソにまで使いを送って教会の長老たちを呼び寄せても、十分、間に合ったのでしょう。

<本論>
1.御霊に縛られて

一つ前の16節を見ると、パウロにはもう一度エペソを訪問したいという思いがあったみたいですが、「五旬節(ペンテコステ)」の日までにエルサレムに着きたいと考えていたので、長老たちを呼び寄せることにしたんですね。それは、エペソ教会の人たちに別れのメッセージを伝えてもらうためでした。このことからも、パウロがどれほどエペソ教会の人たちを愛していたかということが分かります。今朝の場面は、よく「パウロの決別説教」と呼ばれますが、私は、ある牧師が、

28節にあった『神がご自分の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために』

というみことばから説教を語られたことを、なぜかよく覚えているのですが、19~28節にあるみことばは、牧師や宣教師であれば、その務めを終える時には、このように語りたいと思わされるようなことばではないかと思います。パウロは22節で次のように言っています。

『ご覧なさい。私は今、御霊に縛られてエルサレムに行きます。そこで私にどんなことが起こるのか、分かりません』(使20:22)。

つまり、自分がエルサレムに行くのは、自分の意志ではない。神のみこころであるということですね。そして、

『ただ、聖霊がどの町でも私に証しして言われるのは、鎖と苦しみが私を待っているということです』(同20:23)。

エルサレムで自分を待っているのは、歓迎ではなくて、投獄と苦しみであることは分かっていると告白しています。パウロがエルサレムに行く目的は、困窮し、困難に直面しているエルサレム教会の人たちを助けるためでしたが、それは、彼自身にとっても大きな困難が予想される旅だったのです。
アメリカの黒人解放運動(公民権運動)を指導したマーティン・ルーサー・キング牧師は次のような言葉を残しています。

「白人から迫害され、危険にさらされ、投獄されたりすると、こんな運動さえしなければ、安全だし、家族と楽しく平和に伝道者の生活ができる。そういう人もいるのだ。もうやめよう、としばしば思う」(「汝の敵を愛せよ」から)。

これは、榎本保郎牧師が、「新約聖書一日一章」の中で紹介しておられたのですが、榎本牧師自身も、愛媛の今治の教会で牧師をしておられた頃に同じような思いになられたことがあったそうです。それは、教会の人たちから、毎朝の早天祈祷会での説教を止めてほしいと言われた時にです。榎本先生には重い肝臓の病気があり、医師からも無理をすることを止められていたそうですが、教会の皆さんから「そんな健康状態で毎朝6時から説教をするなんて無茶だ。榎本先生、あなたは僅か10人や15人の早天祈祷会に来る人たちのために牧師をやっているのではない。500人の教会員のための牧師なのだから、十分に睡眠をとり元気に奉仕をしてほしい」と言われたそうです。しかし、榎本先生はそれでも早天祈祷会での説教を続けられたそうです。キング牧師が書いていることも、また、榎本先生が今治教会の人たちから言われたことも、人間的に見れば当然のことだと思います。「何も、好き好んで、そこまでしなくても」。しかし、聖霊が自分に迫って来た時、キング牧師も、榎本牧師も、そして、今朝のパウロも、その導きに従うしかなかったんですね。もちろん、それは、一人一人の信仰による決断であり、自ら進んで背負う十字架であったわけですが、自分はどうかなー、と思わされます。ある牧師の「楽せず、無理せず」ということばを聞いたことがありますが、自分なんか、すぐに楽することばかり考えてしまうのですが…。

<結論>

そして、今朝の開会聖句は、この感動的な説教を締めくくることばです。

『このように労苦して、弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを、覚えているべきだということを、私はあらゆることを通してあなたがたに示してきたのです。」』(使20:35)。

私たちは、イエス様のことばを福音書で知ることができますが、この『』で括られた、『受けるよりも与えるほうが幸いである』ということばは、四つの福音書のどこを探しても見つけることはできません。それだけでなく、新約聖書の中で、福音書以外で、直接イエス様のことばが引用されているのは、この箇所だけなんです。その意味でも珍しいと言うか、興味深い箇所なのですが、恐らく、この頃までは、イエス様のことばを実施に聞いた人たちがまだ多く生き残っていたので(パウロ自身はそうではありませんでしたが)、このことばもそんな人たちの賛美や祈りのことばとなって伝えられてきたのでしょう。その上で、改めてこのことばの意味を考えた時、様々な想いが浮かんできました。私たちは子供の頃は、受けることの方が嬉しく感じられたかもしれません。しかし、大人になってからは、どうかというと、むしろ人から何かを受けることによって、借りを作った、相手より弱い立場に立たされたように感じることが多くなったのではないでしょうか。その裏返しが、人に与えることによる優越感です。だから私たちは、基本的に受けるより与えることの方が好きなのですね。それは私たちが親切だからではなく、その方が優越感に浸れて気分がいいからです。しかし、パウロがここでイエス様のことばを引用して言わんとしていることは、そんなことではないですよね。彼がこの与えることの幸いを知ることができたのは、自分自身がイエス様から大きな恵みを受けたことによってでした。皆さんもご存じのように、元々、パウロは、クリスチャンを迫害していた人でした。イエス様の敵、教会の敵だったのです。そのパウロが、今はイエス様を信じる者になり、みことばを宣べ伝える者になっている、それは、ただ神様の、イエス様の恵みによることでした。神様に逆らい、教会を滅ぼそうとしていた自分の大きな罪をイエス様が引き受けて、そのために十字架にかかって死んでくださった、その大きな恵みをパウロは復活されたイエス様と出会うことによって知り、その恵みを受け継ぐ者とされたのです。そして、その恵みを人々に伝えることで、本当の意味での与えることの幸いを知ることができたのです。パウロが与えることの幸いに生きることができているのは、実は神様から恵みを受けることの幸いを知ったからなんですね。本物の与えることの幸いは、アメージンググレース、驚くばかりの恵みを受けたことを知った幸いからしか生まれないのです。

メッセージ原稿のダウンロード(PDF96KB)

会衆讃美

開会祈祷後:新聖歌384番、メッセージ後:新聖歌507番

聖書交読

詩編76篇 1~12節

2024年教会行事

今週はお休みとなります。

#56-2933

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