わたしの民が

令和5年5月8日(月)より新型コロナウイルス感染症が5類感染症へ移行することに伴い、礼拝での規制を緩和します。具体的には、会衆讃美は全節歌唱する、省略していた聖書交読を復帰し、司会者朗読→会衆朗読を交互に行います。
なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。

メッセージ

<使徒の働き 18章1~11節>
牧師:砂山 智

開会聖句

「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるので、あなたを襲って危害を加える者はいない。この町には、わたしの民がたくさんいるのだから。」

<使徒の働き 18章9節後半~10節>

メッセージ内容

Youtube動画

 

公開が遅れて申し訳ありません。 メッセージ動画公開:7/20 PM 9:26
 


 メッセージ原稿を公開しました。  

<序論>
・先週はパウロの第一回目の伝道旅行からでした。今朝は15章36節から始まる第二回目の伝道旅行での話です。ただ、今回の伝道旅行はスタートから大きく躓いてしまいます。その原因はヨハネ・マルコ。先週、お話ししましたように、マルコは前回の伝道旅行の際に途中で一行から離れて自分の家に帰ってしまったのです。バルナバはそんなマルコを連れて行こうとしますが、パウロが強硬に反対するんですね。このことについて、だいぶん前の「日々のみことば」のコラム(黙想する霊性)に

「情熱的であったパウロは典型的な多血質の人で、ホームシックに苦しんでいたマルコのことを理解できなかったのだと思います」

と書かれてあったのですが、辞書によると「多血質」というのは、「快活、楽天的、社交的で、気が変わりやすい気質(性格)」とありました。教会に限らないことですが、私たちの社会で起きる人間関係の問題のほとんどは、そんな気質の違いに原因があると言えるかもしれません。ただ、災い転じてなんとやら。今回のパウロとバルナバの喧嘩別れも悪いことだけではなかったんです。なぜなら、そのことで結果として二つのチームによる伝道が行われ、マルコという将来のある若者が埋もれてしまわずに済んだのですから。

<本論>
1.アテネでの挫折

さて、そんなこんなでバルナバたちと別れたパウロ一行は、16章6節によると、アジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられ、7節では、ビティニアというところに進もうとしたがイエスの御霊が許されなかったとあります。けれども、パウロはトロアスで一人のマケドニア人の幻を見るんですね。パウロはその幻をみこころと受け止め、マケドニアに渡ります。福音が初めてアジア大陸からヨーロッパ大陸に入った瞬間です。そしてパウロは、ピリピ、テサロニケからベレアを経てアテネにまでやって来ます。アテネというのは、皆さんもご存じかと思いますが、ギリシアの都であり、ギリシア文化の中心地でした。そこで彼はシラスとテモテを待っていたのですが、町が偶像で一杯なのを見て我慢できなくなり、伝道を始めます。いかにも多血質のパウロらしいのですが、彼はアレオパゴスの真ん中に立って語りだします。ただ、聴衆
のほとんどがギリシアの哲学者たちであることは知っていましたので、旧約聖書からの引用は避け、聖書とは関係のない詩人のことばまで引用して(使17:28)、懇切丁寧に語りかけるんです。しかし、彼らの反応はどうだったかというと、

『死者の復活のことを聞くと、ある人たちはあざ笑ったが、ほかの人たちは、「そのことについては、もう一度聞くことにしよう」と言った。こうして、パウロは彼らの中から出て行った』(使17:32~33)。

この時、信仰に導かれた人たちもいたのですが、このアテネでの経験は、パウロにとって苦い思い出となったようです。「あんなに知恵を働かせて語ったのに・・・」。このことで、パウロは燃え尽き症候群のような状態になったのではないかと思うんですね。その時の気持ちが書かれているのが、次の「Ⅰコリント」の一節です。

『あなたがたのところに行った時の私は、弱く、恐れおののいていました』(Ⅰコリ2:3)。

実は、今、お読みしたみことばを原典のギリシア語で見ると、「弱く、恐れおののいていました」ということばの一つ一つに「エン」という前置詞がつけられ、強調されていることが分かります。それほど、この時のパウロは、精神的にまいってしまっていたということでしょう。

2.アキラとプリスキラ

しかし、神は、このコリントで、素晴らしい出会いを用意しておられました。アキラとプリスキラです。二人はポントス生まれのユダヤ人で、クラウディウス帝がすべてのユダヤ人をローマから退去させるように命じたので、イタリアから来ていたんですね。そして、パウロは二人の家に住まわせてもらい、一緒に天幕作りの仕事をしたとありました。ユダヤでは、ラビ(教師)というのは必ず手に職を持たなければならないという常識というか、慣習があったそうで、パウロの出身地タルソは天幕作りで有名な町でしたので、彼は天幕作りの技術を持っていたと思われます。このような「職人さん」にとって、愛着のある仕事をすること自体が一種のリハビリになったのでしょう。それも一人ではなく、同じ仲間と一緒にというのは。ドイツの諺に「共に喜ぶのは二倍の喜び、共に悲しむのは半分の悲しみ」というのがあるそうです。私は、この時の二人との交流がパウロの心を癒すきっかけになったように思えました。
そして、コリントについては何度かお話ししたことがありますが、ギリシア本土とペロポネソス半島を結ぶ地峡(二つの陸地を結びつける、くびれて細くなっている陸地)に位置する町で、古代から、陸では南北に、海では東西に通じる交通の要衝として大いに栄えた町でした。また、2万人を収容できる野外劇場があり、1年おきに開催された競技大会は、オリンピアのそれに次ぐ人気を集めたそうです。ただ、そういう経済的な繁栄とは裏腹にと言うか、それゆえにと言ったほうがいいかもしれませんが、道徳的には大変乱れた町だったんです。当時、「コリント人のように振舞う」ということばがあって、それは不品行を行うことを意味したそうです。

<結論>

アテネでの挫折から立ち直ったパウロは、そんなコリントで伝道を再開します。

『パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人やギリシア人を説得しようとした。シラスとテモテがマケドニアから下って来ると、パウロはみことばを語ることに専念し、イエスがキリストであることをユダヤ人たちに証しした』(使18:4~5)。

けれども、次の6節にある通り、今回もユダヤ人たちはパウロに反抗し、口汚くののしったんです。パウロは衣のちりを振り払って、「あなたがたの血は、あなたがたの頭上に降りかかれ。私には責任がない。今から私は異邦人のところに行く」と言ったと記されています。それはイエス様が十二使徒を遣わす際に命じられたみことばの通りでしたが、やっぱり拒絶されるのはショックだったでしょう。私たちから見れば、パウロは「大伝道者」というイメージなんですが、実際には失敗と落胆の繰り返しだったのかなと思わされます。今朝の開会聖句はそんなパウロを励まされたイエス様のみことばです。

『「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるので、あなたを襲って危害を加える者はいない。この町には、わたしの民がたくさんいるのだから。」』(同18:9b~10)。

こんなコリントの町にイエス様の民がたくさんいるって?パウロは驚いたかもしれませんが、わたしの民とは、イエス様の価値観、その教えに生きる人のことです。具体的には、隠れたところで隠れたところにおられる神に祈る人。或いは、右の手がしていることを左の手に知られないように施しをする人のことだと思います。だから、イエス様の民は目立たないんですね。私たちの身近にもそんな方がおられます。そして、こんな自分も、イエス様から「わたしの民」と呼んでもらえるようになりたいなぁ、と切に願います。

メッセージ原稿のダウンロード(PDF108KB)

会衆讃美

開会祈祷後:新聖歌284番、メッセージ後:新聖歌311番

聖書交読

詩編72篇 1~7節

2024年教会行事

7月17日(水) オリーブいきいき百歳体操 10時~11時

#56-2929

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