なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。
メッセージ
<創世記 1章1~2節>
信徒:K
開会聖句
わがたましいよ 主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
<詩編103篇 2節>
メッセージ内容
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メッセージ原稿を公開しました。(公開が遅れて申し訳ありません)
<はじめに>
・先月から創世記に入りました。前回は「神さまの言い分」という話をしました。誰もが神がこの世界を造ったと信じていた時代、民族ごとにたくさんの神々がいた状況で、では「どの神が世界を造ったのか」という質問に対して、「わたし(聖書の神ーイスラエルの神)がこの世界を造った」というのが神さまの言い分で、そこから「あなたはわたしだけを礼拝しなさい」という次の言い分につながるとお話しました。今日は前回ふれなかった2節が中心です。私たちは聖書の神を信じている訳ですので、この1節の主張には100%同意します。そして、神さまは、全く何もない状態から、天地万物のすべてを造られた全能の方と信じています。それは全くその通りです。人間の能力がどれほど優れようと、人は無から何かを造りだすことはできません。「無からの創造」はキリスト教会の伝統的な教えです。しかし、注意深く2節を読むと、それとは違ったことに気づかされます。ここから神さまの言い分Ⅱを見ていきましょう。
I.カオスな世界からの創造
2節「地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。」
3節から実際の創造のわざが始まっていく、その前の状態です。私たちは天地創造のはじめは何もなかったというイメージを持っているのですが、2節は「地は茫漠として何もなく」と言ってます。茫漠は辞典では「広々としてとりとめのないさま」「はっきりしないさま」で、地と果てしない空間に闇と大水があり、水の上を神の霊が動いていた、そんな状態のようです。聖書では大水はいのちを脅かすもの(マルコ4:39~41)ですし、闇(ルカ1:79)ではいのちは育ちません。このいのちが育たないというのが2節の最初の状態です。そして、この茫漠の様子は、新改訳では「混沌」ということばで表されていました。
皆さん、カオスということばを聞いたことありますか。「混沌」を意味する英語で、「区別が立たず物事が入り交じっている状態」を指します。最近は若者の間で本来の意味から派生した意味で使われていて、「理解に苦しむ」「狂気じみてる」というニュアンスらしいです。例えば、「その発想はカオスだ」は、誰も思いつかないほど斬新だという褒め言葉であったり、訳わけわからなくてありえないというけなす言葉にもなります。カオスの英語の語源はギリシャ語で、宇宙が成立する以前の秩序なき状態を意味するそうです。ですから、創造のわざが始まる前の地球の状態はとりとめなく広がる「茫漠」であり、物事が入り交じっている「混沌―カオス」です。何が言いたいかと言いますと、創造のわざは「無からの創造」と言えますが、ここでは「カオスからの創造」が主張されて、「茫漠」も「混沌」も秩序のない状態を表しています。神さまは、そこにある素材(地、水、闇)に、空間と時間という秩序を与えることで、被造物が住む世界を整えられていったというのが、2節の主張です。
千里ニュータウンは万博にともなって開発された都市です。子どもの私が「吹田」という地名を知っていたのは、幼なじみの祖父母が住んでいる田舎だったからです。それが、万博に行くために電車の窓からニュータウンの風景を見たときは「本の中で見た未来都市みたい」と、大変驚きました。時々、昔の開発途中の写真を見ることがありますが、山が切り開かれ平らにされ、広々とした土地に道路や建物が備えられて、町が整ってきました。神さまも初めにあったものに秩序をもたらすことで、生き物が住むこの世界を整えられたのです。
そして、もう一つ付け加えますと、1節も2節も、神さまの言い分、難しく言いますと、神学的主張というのですが、聖書は神学的な主張が書かれた本なので、それを一字一句神のことばということで、科学的な説明に用いるのは筋違いなのです。神さまから見れば、これこそ若者ことばの「まじカオスー理解に苦しむ」です。では、何故、1節2節のような宣言が、創世記の初めにあるのでしょうか。
II.カオスをおさめる神の働き
旧約聖書が書かれた目的はイスラエル民族のためで、モーセ五書はイスラエル国家の成り立ちについて書かれてます。その一番はじめに、神さまがそういう主張(わたしが造った、混沌からの創造)をしなければならなかったのは、彼らが常に強い国々の間で生きていたからで、この国を取り巻く世界情勢はしばしば混沌状態だったからです。
イスラエルという国は人々が行き交う要所にありました。東西にエジプト、メソポタミアという大国があり、絶えず外交上の緊張を強いられていました。彼らの神の宣言は立派で自信に満ちてますが、その神はこの地域一帯を支配したことなどなかったのです。そればかりか、2度も民は民族存亡の危機にさらされました。 その一つが出エジプトです。アブラハム、イサク、ヤコブの子孫はエジプトの政策により、奴隷として酷使され、生まれた男の子はナイルに放り込まれてました。民の叫びを聞いた神さまが彼らをエジプトから脱出させ、最後紅海を渡るその直前に、ファラオが約束を破り追いかけてきたことを知らされます。当時の最強の軍隊を引き連れて。ここで民は蜂の巣をつついたような収拾つかない混沌状態になります。ここで神さまが彼らを救われます。
出エジプト14:21「モーセが手を海に向けて伸ばすと、主は一晩中、強い東風で海を押し戻し、海を乾いた地とされた。水は分かれた。」
神さまは、強い風で海を押し戻し、左右に壁を造り、民に海の底を渡らせました。
2節の後半を見ましょう。「神の霊」は2節の脚注では神の息吹、「動いていた」は「舞いかけていた」とあります。「動いていた」ではわかりにくいですが、「舞いかけている」ということばはとても強い風です。同じことばが、申命記32:11に使われています。
「鷲が巣のひなを呼び覚まし、そのひなの上を舞い…」
鷲がヒナのいる巣の上の方で、翼でパタパタとおおっている「ホバリング」と言われるもので、力強い羽ばたきによって一点にとどまる飛び方です。
神さまはそういう強い風を吹かせ、彼らのために水をせき止め、彼らだけに海を渡らせ、この後、シナイ山で正式にイスラエルという神の民が誕生しました。
似たことが新約時代にもあります。ペンテコステの出来事。
使徒2:2「すると天から突然、激しい風が吹いてきたような響きが起り…。また、炎のような舌が分かれて現われ、一人ひとりの上にとどまった。すると皆が聖霊に満たされ…」
激しい風が吹いて、聖霊が弟子たちに下り、他国のことばで話始めました。驚いて集まる人たちの前で、生まれ変わった力強いペテロの説教があり、
41節「彼のことばを受入れた人人はバプテスマを受けた。その日、三千人ほど…」
と初代教会が誕生しました。彼らはイエスさまにエルサレムで約束の助け主を待っていなさいと言われ、皆で祈っていても不安だったと思います。復活のイエスさまは天に帰られた。十字架からペンテコステまでの50日間、彼らは混沌とした不安の中にいたのです。しかし、聖霊の息吹が彼らの上に吹き、イエスさまを信じる教会の民が誕生しました。
今日の開会聖句は
詩篇103:2「わがたましいよ 主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」
皆さんは八がけ時代ということばをご存知ですか。将来、今までのような便利でサービスの行き届いた社会は維持できなくなり、今の社会の便利さが八割になるというのです。多和田葉子さんという作家は、そんな暗い未来を前向きに捉えるために心がけることは、過去の記憶を長く伝えていくことだと言ってました。過去10年のことしか思い出せない頭で物事を判断していくと、未来は非常に暗いものになると言うのです。なるほどと思います。短い過去の記憶では、希望が見いだせず、前向きな思考は生まれないということだと思いました。今日、私たちはものすごく遠い過去の記憶を聖書からたどり、神さまの力強い働きを覚えました。私たちクリスチャンの生き方は、信仰の先祖たちの救われた記憶、経験した恵みを思い起こし、神さまをあがめ、その神さまと共に生きる生き方だと思います。誰にも順境の日、逆境の日があります。先が見通せない逆境の日、その混沌の中で、私たちの神はカオスから世界を造られた方、それ故、大丈夫だというのが、神さまの言い分が教えてくれることではないでしょうか。
<おわりに>
私たちは否応なく、時代の変化につれ、「混沌」を経験するでしょう。だからこそ、神の恵みを忘れず、さらにそれぞれに良くして下さった恵みの記憶を共有し、宝としたいと思うのです。神が助けたもう記憶、私たちを愛して下さっている記憶、将来の約束の記憶を忘れないように、ともに支え合い、励まし合って生きたいと思います。
新聖歌
開会祈祷後:248番、メッセージ後:358番
聖書交読
詩編67篇 1~7節
2024年教会行事
6月26日(水)オリーブ・いきいき百歳体操 10時~11時
#56-2926
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