なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。
メッセージ
<創世記 1章1~2節>
信徒:K
開会聖句
最後に、兄弟たち。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いことに、また、何か徳とされることや称賛に値することがあれば、そのようなことに心を留めなさい。
<ピリピ人への手紙 4章8節>
メッセージ内容
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メッセージ原稿を公開しました。
<はじめに>
・GW に鳥取へ行きました。大山から西を見降ろすと、鳥取と島根の県境が見えました。2日目になだらかな道を下り、境港、大根島に。ここは松江市です。その後、鳥取砂丘を目指しました。右に日本海、左に大山を見ながら、鳥取の一番西からほぼ東の端への移動です。途中、因幡の白ウサギで有名な場所がありました。古事記に記されている神話で、大国主命という心優しい神に、サメを騙して皮を剥かれたうさぎが助けられた話で、この神はその後ヤガミヒメと最初の結婚をして、出雲地方の国作りに励まれ、出雲大社に祀られています。日本列島をつくったのは、もっとさかのぼり、イザナギとイザナミという神だそうです。日本だけでなく、世界各地にこのような創造神話があります。私たちの国や世界はどうやってできたのかは、昔から関心がもたれ、それに関わる多くの神々がいます。今も、その興味は尽きません。日本では進化論が常識となってますが、それを否定する科学者もいます。
今月から旧約聖書の創世記を読みます。「はじめに」ということばが示すように、色々な「はじめ」が書かれてます。天地のはじめ、生き物のはじめ、人間の、罪の。今日は聖書の神さまが言いたいことの「はじめ」について読んでいきます。2 つあります。1 つは「わたし(聖書の神)が天地を造ったということ」、2つめは「わたしだけを礼拝しなさいということ」です。
I.聖書の神は天と地を創造した
今まで新約のヨハネ福音書を読んできましたが、その冒頭のことば「初めにことばがあった。」と、これから読む創世記のそれは「はじめに神が天と地を創造された。」は似ています。ヨハネはイエスさま(ことば)を、創造のときにはすでに存在されていた方として紹介しています。とは言え、旧約にはイエスさまは一切登場しません。でも教会は、旧約新約の両方をキリスト
教の正典(カノン)としました。それは信仰と生活の基準です。正典を選ぶことになった理由は、色々な教えがでてきて、間違った教えと区別をする必要が生じたためでした。多くの書物の中で、神のことば(人を通して神が語られたことば)だと信じられ、認められる書物が選ばれました。すんなりと決まったものもあれば、論争があって時間のかかったのもあります。そのよう
な選ぶ作業の過程で、キリスト教の時代になったのだから、特定のユダヤ民族の歴史が記されている旧約は切り離して、新約だけにしようという意見がありましたが、異端として却下されました。イエスさまは旧約の教えに生き、そこに語られていた神さまの救いの計画のクライマックスとして、ご自分のわざを成し遂げ、新しい時代を始められたのですから、旧約新約の両方
を読むことで、神さまの私たちのための幸いな計画をよく知ることができるのです。
創世記は大きく3つに分けられます。1~11 章は原初史と言われ、世界と人類の創造を記したところです。次に神の召しに応えたアブラハム、イサク、ヤコブの族長の時代、そして 3つめがヨセフ物語。彼の活躍でヤコブ一族が飢饉の時代をエジプトで生き延び、どんどん増え、あまりにも増えて、奴隷として苦しめられ、出エジプトしたという申命記に続いていきます。
これから注目する1節「はじめに神が天と地を創造された。」ヘブライ語で「ベレシート(初めに)バーラー(創造した)エロヒーム(神) 天と地」と 2 節「地は茫漠として何もなく…。」は、3節以降の前置きです。聖書は神の物語で、物語というのは「昔昔あるところに…」というふうに、はじめに時間や場所、登場人物の設定がなされ、それを聞いた人がその世界を頭の中に思い浮かべるのです。この 1,2 節を読んで、皆さんはそれなりにその世界を思い浮かべようとされたと思うのですが、この文は場面設定でありながら、いきなり、これを聞く(読む)者への神さまの言い分、宣言となっています。
その神さまの言い分の内容は、「わたしが天と地を創造した」です。この世界はわたしが目的を持って造り、わたしが所有し、わたしなしには存在できないという意味です。強調点は「このわたしが」です。この言い分の受け止め方は、今と当時では全く違います。今は、神がこの世界の創造に関係したとは考えず、世界は神抜きで成り立ち動いていると考えます。たとえ、神を信じていても、それは個人的なこと心の中のことで、職業や趣味と同じ扱いです。しかし昔は、すべての人がこの世界は神によって成り立っていると信じており、神さま抜きは考えられません。そして、どの民族にもたくさんの神がいました。それらは、豊作、多産の神、律法のない神で、肉の思いを満足させる神でしたから、出エジプトした民は非常に惹かれたのです。そういう彼らを魅了する神々の中で、聖書の神がこの天地を創造したというのが、この1節での神さまの一つ目の言い分です。そして、2つめの言い分、それは「わたしを礼拝せよ」です。
II.あなたはわたしだけを礼拝しなさい
この 2 つの神さまの言い分はとても大胆な要求です。なぜなら、この神は大勢の神々の一つに過ぎず、それもあまり強くない民の神だったからです。ダビデの連戦連勝の時代は短期間でした。常にアッシリア、エジプトの強い国に脅かされ、バビロン捕囚では国を失いました。当時の近隣諸国が聞けば、ごまめの歯ぎしりみたいなことだったかも。それはそうとして、ここで私が気づかされたことは、聖書の神は、他の神々の存在を認めていることでした。
キリスト教は唯一神と言われています。他に源流を同じくするユダヤ教とイスラム教がそうで、他の神々の存在を認めないので、排他的と言われます。しかし、神さまの言い分は他の神々の存在を認めた上での発言です。十戒の最初
20:3「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」
もそうです。命じられている対象は、「あなたには…」という、出エジプトの民です。聖書の神は他民族がそれぞれの神を信じていることを認めているが、あなたたちはわたしだけを拝みなさいと言います。唯一神に対して拝一神。旧約には、神が他の偶像の神を信じる民族を殺し、その偶像を粉砕するよう命じている箇所があるので、聖書の神は他の神々の存在する許さない排他的な神と思われがちですが、それは特別な場合でしょう。神さまは世界には多くの神々があり、それと関連する文化があることを認めておられます。
日本には神道、仏教などの信仰の対象があります。以前は、それを偶像だと否定することに躍起になっていた気がします。そして、その文化まで否定したので、反発をもたれてしまいました。私の友人は節分生まれなので「節子」と名付けられました。キリスト教文化の国々では、聖書の人物の名前が付けられるように、私たちは日本の文化伝統に由来する名を付けたりしますから、文化を否定することはできません。パウロはアテネで宣教したとき、異邦人の熱い信仰心に尊敬を払いました。(使徒 17:22~23)必要なことは、相手へのリスペクトです。ヨハネも「はじめにことばがあった」と、イエスさまのことを「ことば」と言いました。ことばーロゴスとは、ギリシャ世界では世界を成り立たせている根本原理です。ヨハネは、彼らの熱心な探究
心にリスペクトを払い、それは自分たちが信じているキリスト教の神と同じですよと、語りました。相手の考えの否定ではなく、尊敬を払い、共通項を見出すことからスタートをするのです。
ウイクリフという聖書翻訳に重荷を持つ団体がありますが、その祈祷課題に「民俗芸術・芸能を取り入れた聖書活用ができるように」という現地の宣教師の声がありました。すごいと思いました。そういうのは、その土着の神々、私たちが偶像と反応してしまう神々と関わりが濃厚な分野だと思います。以前なら宣教師はそういう分野を敵視したり、拒絶してしまうことが多かったと思いますが、今はその文化の中で神さまがすでに働かれていることを信じ、そこから共通のよいもの、価値あるものを見出すことからスタートします。聖書の神は天地万物、すべての人を造られた神です。キリスト教会の中だけで、また教会の宣教の働きを通してだけでなく、私たちが知らないところで、ずっと働いておられるのです。神にはえこひいきはありません。
<おわりに>
では、私たちは違った神を信じる人、また神を信じない人の間でどうしたらいいでしょうか。今日の開会聖句ピリピ 4:8「最後に、兄弟たち。すべて真実なこと、尊ぶベきこと、正しいこと、清いこと…そのようなことに心を留めなさい。」これらは、誰もが心の奥底で、願い求めていることではないでしょうか。私たちが世の光として、これらを心に留めて生きることで、私たちの神さまに関心をもってもらえるようにと祈ります。
新聖歌
開会祈祷後:211番、メッセージ後:286番
聖書交読
詩編58篇 1~11節
2024年教会行事
5月29日(水)オリーブ・いきいき百歳体操 10時~11時
#56-2922
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