なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。
メッセージ
<申命記 17章14~20節>
牧師:砂山 智
開会聖句
しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。
<ペテロの手紙第一 2章9節前半>
メッセージ内容
Youtube動画
メッセージ動画公開:2/10 PM 22:00
メッセージ原稿を公開しました。
・「申命記」から3回目になります。今朝の箇所もモーセの説教ですが、モーセ五書の中で、王について言及されているのはこの箇所だけです。
<本論>
1.主が選ばれる者を
今朝の最初の14節で言われていることは、この時から数えて約二百年後に現実のこととなります。「Ⅰサムエル」8章をご覧ください。イスラエルの長老たちが、預言者であり、最後の士師(さばきつかさ)とも呼ばれるサムエルのところにやって来て、
「どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください」(Ⅰサム8:5b)
と言ってくるのです。彼らは、サムエルの後継者たるべき二人の息子がどうしようもないバカ息子であることに不安を覚え、そのように言ってきたのですが、
『そのことばはサムエルの目には悪しきことであった』(同8:6)
とあります。それで、サムエルは主にお伺いを立てるのですが、主はサムエルに次のように言われるのです。「Ⅰサムエル」8章7節。
「民があなたに言うことは何であれ、それを聞き入れよ。なぜなら彼らは、あなたを拒んだのではなく、わたしが王として彼らを治めることを拒んだのだから。わたしが彼らをエジプトから連れ上った日から今日に至るまで、彼らのしたことといえば、わたしを捨てて、ほかの神々に仕えることだった。そのように彼らは、あなたにもしているのだ。今、彼らの声を聞き入れよ。ただし、彼らに自分たちを治める王の権利をはっきりと宣言せよ。」(同8:7~9)。
サムエルは、そのみことばの通りに、彼らに向かって自分たちを治める王の権利についてはっきりと宣言します。つまり、あなたがたが願う王は、あなたがたを抑圧し、あなたがたに過酷な義務を課すであろうと。しかし、それでも彼らは「いや、どうしても、私たちの上には王が必要です」と言ってきかなかったので、サムエルは遂に、主の命によって王を立てることになるのです。
これはイスラエルに限らないことですが、これまでの人類の歴史において、数えきれないほどの王や皇帝、権力者が立てられてきました。けれども、残念ながら、そのほとんどは、この時のサムエルからの警告というか、預言の通りと言えるでしょう。今の私たちの国の政治の状況を見ても、まさにそんな気がします。今年はアメリカの大統領選挙など、世界中で重要な選挙が行われる年です。今朝の
「申命記」17章15節には、「必ず、あなたの神、主が選ばれる者をあなたの上に王として立てなければならない」
とありましたが、あのパウロは、
「ローマ」13章1節で、『神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられています』
と言っています。このみことばは、誤解されやすいというか、今までの歴史において、時の権力者に都合の良いように用いられてきたみことば、とも言えるんです。ここでパウロが言っていることは、この地上における政治的権威の中には、神のみこころを行っていないものもあるが、元来支配とか権威とかいう原則は、神によって確立され、保持されており、その意味で、神によらない権威は存在しないということだと思われます。このみことばを正しく解釈するにあたって、私たちが見落としてはならないことは、その前段のことばが、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです」となっていることです。つまり、このみことばは「あなたがたはみな、上に立つ権威に従うべきです」ではないんです。これは大きな違いと言えます。つまり、このみことばは、一般論というか、この世の原理原則を示したものだと言えるでしょう。聖書は、私たちに、クリスチャンとして、もっと優先すべきことを命じています。それは、その少し前の12章にある、例えば、
12章2節の『この世と調子を合わせてはいけません』。
そして、
12章12節の『悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい』
ということです。これらの勧めがなされている相手は、すべて、「人はみな」ではなくて、「あなたがたは」なんですね。
2.王への二つの警告
そして、その後の16節以下では、その立てられた王に対して、二つの警告が発せられています。その第一は16節。
『ただし王は、決して自分のために馬を増やしてはならない。馬を増やすために民をエジプトに戻らせてはならない。主は「二度とこの道を戻ってはならない」とあなたがたに言われた』(申命17:16)。
これは、軍事力に頼るな。それを競うな、ということですね。アメリカのニューヨークの国連本部前広場の壁は「イザヤ・ウォール」と呼ばれているそうですが、そこには次のような旧約聖書の「イザヤ」みことばが刻み付けられています。
『主は国々の間をさばき、多くの民族に判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない』(イザヤ2:4)。
今も昔も、この世界の現実は、このみことばから遠く離れているということを想わされます。ウクライナ戦争、パレスチナでの戦争。それら以外にも、世界中で今なお、戦火が絶えることはありません。私たちは諦めずに、平和のために祈り続けなければならないと思うのですが、それはもちろん、ヒューマニズム(人間中心の人道主義)に基づくものではありません。この「イザヤ」のみことばの最初に、「主は国々の間をさばき、多くの民族に判決を下す」とあるように、主はいつの日か、この世の国々や多くの民族、それらを支配する王たちをさばき、主にある平和が実現すると言われるのです。その日が来ることを信じて、祈り続けましょう。
そして、もう一つの王に対する警告が17節です。
『また王は、自分のために多くの妻を持って、心がそれることがあってはならない。自分のために銀や金を過剰に持ってはならない』(同17:17)。
政治と金の問題。自民党の派閥の裏金問題も、何か相も変わらずと言うか、永遠のテーマのような感じがしますが、それも決して永遠のテーマであってはならないのです。いつの日か、それらの問題も、さばかれる時が来る。主の正しいさばきが行われる、と信じて祈り続けたいですね。
今朝の説教題は、「聖書的ノブレスオブリージュ」=「聖書が言う高貴なる者に伴う義務」とさせていただきましたが、その根本は、今朝の箇所の最後にあったモーセのことばの中で述べられています。
『その王国の王座に就いたら、レビ人の祭司たちの前にある書から自分のために、このみおしえを巻物に書き写し、自分の手もとに置き、一生の間これを読まなければならない。それは、王が自分の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばと、これらの掟を守り行うことを学ぶためである。それは、王の心が自分の同胞の上に高ぶることのないようにするため、また命令から右にも左にも外れることがなく、彼とその子孫がイスラエルのうちで、長くその王国を治めることができるようにするためである』(同17:18~20)。
<結論>
この「ノブレスオブリージュ」ということばはフランス語なんですが、欧米の王族や貴族など、例えばイギリスの王室などが軍隊で軍務に就いたり、社会的な奉仕活動を行ったりするということを言います。それらの行為は、はっきりとした法的な義務に基づくものではないのですが、そのような立場にある人たちに対して、自発的な無私の行動を促す明文化されない社会的責任と言えるでしょう。今朝の開会聖句で、ペテロは、私たちクリスチャンを「選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民」と呼びました。あの宗教改革を指導したマルティン・ルターも、「キリスト者は、全ての者の上に立つ自由な主人であって、誰にも隷属していない」と言い、そのすぐ後で、「キリスト者は、全ての者に仕える僕であって、全ての者に隷属する」とも言いました。私たちが選ばれたのは、神の絶対的な恵みによるものですが、私たちは、その絶対的な選びの愛を信じ切ることで、自分自身が、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民である、という自覚を持つことができます。そして、私たちの「ノブレスオブリージュ」は、その自覚から始まるのではないでしょうか。
会衆讃美
開会祈祷後:新聖歌38番、特別讃美後:新聖歌425番
聖書交読
詩編40篇 1~10節
2024年教会行事
2月7日(水) オリーブいきいき百歳体操 10~11時
#55-2906
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