なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。
メッセージ
<ヨハネの福音書 19章23~30節>
信徒:K
開会聖句
信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。
<へブル人への手紙 12章2節前半>
メッセージ内容
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メッセージ原稿を公開しました。
<はじめに>
・前回お話したのは、24日のクリスマスでした。イエスさまは世を裁くためではなく、救うために来られたって言うけれど、では救われた世って、どんな世?ということを考えました。それは、赦しから始まる世です。神が人を赦されたので、人と人との関係が赦しから始まっていくということでした。今日は私たちがその赦しの根拠と信じる十字架の場面です。十字架上でイエスさまが言われたことばは福音書に7つ。福音書は、イエスさまの伝記のように、その生涯を記すというより、「イエスとは何者だったか」についての証言を、4人の記者が記したものです。時々「○○の福音書」というのを見ますが、すべて後に書かれたもので、4福音書は、第一次資料と言われる、イエスさまと同時代に生きた証言者が書きました。マタイ、マルコ、ルカは同じ資料を共有しているので、共観福音書と呼ばれ、ヨハネは独自路線です。それぞれ補い合うところもありますが、違いも面白い。今日の主題は「イエスさまの最後のことば」で、3つが今日の箇所に記されています。そこから、ヨハネが伝えたいことを受け取れたらと思います。
I.母と弟子へのことば
まず、十字架の最後のことばを思い出しましょう。一番有名なのは、「エリ、エリ、ラマサバクタ二」(わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。)マタイ27章とマルコ15章です。次に
ルカ23章の「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは、自分が何をしているのか分かっていないのです。」と
43節の「…あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」
でしょう。自分たちの罪が全くわかっていない民へのとりなしと、死ぬ直前の信仰告白を受入れられたイエスさまの姿が浮かび上がります。ルカにはもう一つ、
46節「父よ、わたしの霊をあなたの御手に委ねます。」
があります。これで4つ。あとの3つをヨハネ福音書が記しています。
25~27節 「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と「ご覧なさい。あなたの母です」
これで一つに数えます。ここは死の間際のイエスさまが、愛する弟子に母の今後を託している場面です。公生涯に入られたイエスさまが、家族と親しくされている様子は聖書にはありません。むしろイエスさまの態度は逆に思います。2章のカナの婚宴披露宴では母につっけんどんな印象でした。マタイ12章もそうです。
46~48「イエスがまだ群衆に話しておられるとき、…わたしの母とは誰でしょうか、兄弟とは」…。」
イエスの噂を聞き、心配して捜しに来た家族に対して非常に冷めた言い方ですね。だから、ここを読むと、やはりお母さんのこと気がかりなんだなあと思いました。でも、不思議にも思いました。私たちは自分の人生経験を通して聖書を読みますが、私はこのことばは、母親の今後(老後)を心配している息子のことばだと思います。介護経験のある人はご存知でしょうが、介護サービスを受ける際、介護を受ける人に一番関わる人をキーパーソンに決め、書類に名前、電話番号と関係などが記入されます。私はこう思いました。「なんで弟子に頼むの?他に家族もいるのに。キーパーソンはまず血縁でしょ。」 イエスさまには複数の弟と妹がいます。でも、この時点では、イエスさまを長男の責任を放棄した兄として、よく思っていなかったかもしれません。それで、百歩譲って、こう考えました。「それなら、今も一緒に寄り添ってくれている母マリヤの姉妹に頼めばいいのに」と。
この姉妹について。十字架刑を側で見ていた人たちがいたというのはヨハネ福音書だけで、他では遠くから見ています。それらの記事と合わせると、母の姉妹というのは、ゼベダイの妻で、ヤコブとヨハネの母です。つまり、イエスさまとヨハネはいとこ関係になります。彼らが親戚と聞いて、なるほどと思うことがあります。「ゼベダイの息子たちの母」(マタイ20章)が息子の出世をイエスさまにお願いしたことです。ゼベダイ家は裕福だったので、早くに夫を亡くしたマリヤを援助していたことも十分考えられます。それなら、あの件は腑に落ちます。彼女にとって、イエスさまは甥っ子の「イエスちゃん」で、ああいうこと言いやすい関係だったと思うのです。ただ、あの出来事が記されている目的は、このお母さんを批難することではなく、他の弟子たちの心も野心に満ちていたことを示すものです。今までも支えてくれた姉妹がいるなら、次にお願いするのはこの人でいい。何故、彼女を飛び越し、弟子のヨハネに母を託すのでしょうか。
それは、これから弟子ヨハネと母マリヤは「神の家族の関係ですよ」ということではないでしょうか。復活されたイエスさまは、ペテロに「わたしの羊を飼いなさい」と言われました。私は「ご覧なさい。あなたの息子です。」「ご覧なさい。あなたの母です。」ということばが、ヨハネにとってのそれだと思うのです。彼は長生きしました。ペテロやパウロが殉教した後も、動揺する教会を支えました。若い頃短気だった彼は、イエスさまの愛を思い返しながら、教会、つまり「神の家族」を守っていったのでしょう。神の家族とは?
マタイ12:49~50にこうあります。「見なさい。わたしの母…だれでも天におられるわたしの父の…。」
この神の家族に父は不在で、父は天におられる神です。イエスさまの最後のことばは、母のことを気にかける親思いのイエスさまというより、残されるイエスの母と弟子が、親戚(血縁関係)でなく、「神の家族の関係で生きなさい」と、言っていると思います。では、「神の家族」はなぜそんなに大事なのでしょうか。
マタイ18:21「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるからです。」
これは祈祷会でも、教会の建物のことでもなく、教会という神の家族のこと。
II.任務完了のことば
次に、
28~30節にある「わたしは渇く」と「完了した」
という2つのことばを見ます。「渇く」は
詩篇22:15「私の力は土器のかけらのように乾ききり、舌は上あごに貼りついています。」と
69:21「彼らは私の食べ物の代わりに毒を与え、私が渇いたときには酢を飲ませました。」
の預言の成就です。舌が渇いて上あごに貼りついていますが、それは上あごにくっついた舌を戻す力さえないからです。酢は苦しみを和らげる説と苦しみを増すという説がありますが、ここを読むと、どうも後者のように思います。ここから想像できることは、イエスさまはもう最後の極限状態で、その極限でもまだ痛めつけられて様子です。
ヨハネ福音書には「水」にまつわる話が多くあります。2章の水がめいっぱいの水がぶどう酒に変わる奇跡、3章のニコデモの新生への質問―どうやって母のお腹の中(羊水の中)に?4章のサマリヤの女性との会話―井戸水と渇くことのない水、5章のベテスダの池の病人―水がかき回されたとき。7章―雨乞いの祭りでもある過越の祭の最終日に、イエスさまは「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」と言われました。ヨハネは、私たちに、イエスさまは私たちの渇きをいやす、いのちの水を与える方として指し示しているのでしょう。しかし、そのイエスさまが「わたしは渇く」と言われた。本来渇くことのない方がそう言われたのは、私たちに代わって神からのいのちがたたれる、断絶という渇きを経験されたからです。そして、最後に「完了した」と、地上での任務遂行完了を宣言して死なれました。
今日の開会聖句は、
へブル11:2a「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。」
またブギウギネタです。戦時中、慰問活動をしていた淡谷のり子モデルの茨田りつ子は、軍歌を拒否した人で、もうまもなく飛び立つ特攻隊員の前で、彼らのリクエスト「別れのブルース」を歌いました。彼らが感極まって「これで心残りなく戦いに行けます」ということばを聞き、彼女は楽屋で激しく泣き崩れたのです。私はその理由がただ可哀想だから?しっくりしませんでした。戦後ステージが再会され、歌うために楽屋に戻ってきた彼女の顔には全く喜びがありませんでした。嬉しそうではなく、とても怖い顔。彼女の心がひどく傷ついていたからでした。彼女はめちゃくちゃ喜び、張り切っているスズ子にこう言いました。「歌は人を生かすために歌うものでしょ。でも、私の歌は彼らを死に向かわせた(後押しした)」と。その後悔、悔しさが彼女をずっと苦しめていました。
<おわりに>
イエスさまは私たちの渇きをいやす方、永遠のいのちを与えて私たちを生き生きと生かす方です。そんな人生を約束する方です。それなのに、もし、私たちがイエスさまから目を離し、この世の出来事、周囲の人間関係、ふがいない自分のことが気になって、振り回されているなら、イエスさまは酷く悲しまれます。もちろん、そんなときも経験します。しかし、イエスさまは私たちを生かすために、ご自分を死に明け渡される前に、最後の力を振り絞って「完了した」と言われました。私たちのいのちは、主をからいただくものです。イエスさまから目を離さないで、仰ぎ見ましょう。それができないこともあるので、神の家族として互いのために祈り合いましょう。
新聖歌
開会祈祷後:38番、メッセージ後:201番
聖書交読
詩編39篇 1~6節
2024年教会行事
都合によりお休みとなります
#56-2905
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