なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。
メッセージ
<エレミヤ書 17章1~14節>
牧師:砂山 智
開会聖句
「私を癒やしてください、主よ。そうすれば、私は癒やされます。私をお救いください。そうすれば、私は救われます。あなたこそ、私の賛美だからです。
<エレミヤ書 17章14節>
メッセージ内容
https://youtu.be/MBYj_K7XErI
Youtube動画
公開が遅れて申し訳ありません。
メッセージ動画公開:8/8 PM 6:17
メッセージ原稿を公開しました。
<序論>
・「エレミヤ書」からの3回目です。エレミヤは「涙の預言者」と呼ばれています。確かに、本書に漂う雰囲気には暗く重苦しいものがあります。しかし、それと同時に、エレミヤの預言のメッセージは、混迷する時代に生きる人々にとって希望となり、未来への確かな指針を示し続けてきたということも、また事実でしょう。もし、エレミヤがいなかったなら、イスラエル・ユダヤ民族は人類の歴史から完全に消滅していたかもしれません。エゼキエルやダニエルなどの捕囚民たちが、異国での厳しい生活の中、希望の明かりを灯し続けることができたのは、エレミヤの預言があったからだと思うのです。
エレミヤが預言者として活動した期間は約43年間。それは既にお話ししたように、善王ヨシヤの時代に始まり、ユダ最後の王となったゼデキヤまで、そしてさらに捕囚後のしばらくの時代にまで及びます。今朝の17章は、前回の7章と同じく、ヨシヤの次々代の王となったエホヤキムの時代の預言と考えられています。彼の在位期間は11年間でしたが、その間、ユダを属国として実質的に支配してきたエジプトは衰退し、バビロンが台頭してきます。エホヤキムは、やっとエジプトの支配から脱することができたと思ったら、今度はバビロンに服従せざるをえなくなるのですが、バビロンがエジプト攻略に失敗し、退却する僅かなすきに乗じて反旗を翻します。しかし、その企ては失敗し、彼はバビロンによって退位させられ、捕虜となってバビロンにまで連れて行かれるのです(Ⅱ列王24章1節~)。それは紀元前597年のことで、これが第一回目のバビロン捕囚と呼ばれています。
1.アシェラ像
先週、お話ししましたように、エレミヤが預言者として召されたのは善王ヨシヤの時代でした。ただ、ヨシヤ王は紀元前609年にガリラヤ湖の南西約40Kmのメギドでエジプト軍と戦い戦死してしまいます。このメギドの戦いは、その4年後に行われたカルケミシュの戦いの前哨戦とも言える戦いでしたが、それは古代オリエント地域の覇権がアッシリアからバビロンへと移る戦いとなりました。ユダの国では、ヨシヤ王の死後、息子のエホアハズが王となります。しかし、彼は即位後僅か3ですので、エホヤキム王の時代というのは、まさに、滅亡の足音がひたひたと迫る「亡国の時代」であったということができるでしょう。自分の国が滅びてしまうかもしれない。そんな時代にユダの人々は何を思い、何に頼って暮らしていたのでしょうか?今朝の箇所でエレミヤは、祖国ユダの罪、同胞たちの罪を厳しく糾弾します。
『「ユダの罪は、鉄の筆と金剛石の先端で記され、彼らの心の板と彼らの祭壇の角に刻まれている。彼らの子たちまでもが、その祭壇や、高い丘の青々と茂る木のそばにあるアシェラ像を覚えているほどだ』(エレ17:1~2)。
罪というものは人の目からは隠すことができるかもしれませんが、決して隠すことのできないものが二つあります。それは、彼らの心の板、つまり自分自身の心と、祭壇の角、神様です。他の人は私の罪に気づかないいかもしれないけれども、私の心はそれを知っており、そして神もご存じである、とエレミヤは言うのです。そして、2節に出て来るアシェラ像ですが、これは、繁栄と幸福とをもたらすと信じられていたカナンの宗教、バアルの神でした。ユダの人々は、表面的には、神の民、選ばれた民族のように振舞ってはいるけれども、その心の奥底では、ひたすらこの世的な繁栄を求めて生きていたのです。荒野での放浪生活は遥か昔のこととなり、カナンでの定住生活における豊かさ、農業生産のためには、「郷に入れば郷に従え」と言われるように、そのような神々を離れては繁栄が考えられないほど、アシェラ像は彼らの生活に密着したものとなっていたのでしょう。彼らは、現実の世界で生きていくためには、こういうこともしなければならないんだと、ある意味、割り切ってと言うか、妥協して、バアルの神に仕えていたのです。しかし、その後の3節、4節でエレミヤが彼らに告げたことは、あなたの家には富や宝が満ちたかもしれないが、わたしはあなたの犯した罪ゆえに、それらすべてを敵に引き渡す。あなたに与えた土地は取り上げられ、あなたはあなたの知らない敵の国で奴隷となって仕えなければならない、ということでした。
続く5~8節のみことばは、あの「詩篇」第一篇を思い起こさせます。あなたがたは人間に信頼するのか、それとも神に信頼するのか。今朝のユダの人々だけでなく、主は今の私たちにも問いかけておられるのではないでしょうか。あなたは「どっちなんだい?」と。
2.人の心の真実
そして、9節。有名なみことばです。
『人の心は何よりもねじ曲がっている(前の訳では「陰険で」)、それは癒やしがたい。だれが、それを知り尽くすことができるだろうか』(エレ17:9)。
誠に強烈なことばですが、これは真実です。
『心』(へブル語で「レーブ」)とは、聖書では、「人間の内面を意味し、人格、性格、または魂を指し、人そのものを表す総括的な用語」です。それは、『だれが、それを知り尽くすことができるだろうか』とあるように、どんなに親しい家族や友人であっても、どんなに愛し合っている恋人同士であったとしても、その全てを知ることはできません。それは、先程、お話しした罪と同様、私自身と、そして、この私を造られた真の造り主である神以外には知ることはできないのです。今、皆さんの目の前でメッセージを語っているこの私の心もそうですね。もし、今、映画か何かのスクリーンのように私の心の中の全てを映し出すことができたなら、恐らく、ここにいる人は全員、すぐに席を立って、人っ子一人いなくなってしまうでしょう。それは決して大袈裟なことでも何でもなくて、まごうことなき真実なんです。
新約聖書の「ヨハネの福音書」8章冒頭に、あの有名な、姦淫の場で捕えられた女の物語が記されています。私は、いつも、あの話で、『あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい』とイエス様から言われて、年長者から去っていったという場面を読む度に、自分もその一人のような思いにさせられるのですが、私たちは、自分のありのままの姿、自分の心の中の罪に向き合わされた時、自分にはとても他人を裁けるような資格はないということに気づかされます。それは、裏を返せば、人を裁いたり救ったりできるお方は、神お一人だけだということを認めることでもあるでしょう。
今朝の聖書の最後の14節から18節まではエレミヤの祈りだと言われています。彼はその冒頭で次のように祈ります。今朝の開会聖句です。
『「私を癒やしてください、主よ。そうすれば、私は癒やされます。私をお救いください。そうすれば、私は救われます。あなたこそ、私の賛美だからです。』(同17:14)。
エレミヤは自分の心の全てを神に向け、自分の癒やし、救いを求めました。それは、自分の心の中の全てをご存じである方、その方に祈る以外に救いはないと悟ったからではないでしょうか。「あなたこそ、私の賛美だからです」というエレミヤの告白は、彼の信仰告白ではないかと思わされました。
<結論>
今朝の時代から約150年後の紀元前445年、バビロン捕囚から帰還した民はエルサレムの城壁を再建します。城壁が完成した時、祭司エズラは民を集め、仮庵の祭りを執り行い、律法の書を朗読するのですが、その朗読を聞いた民はみな泣いたと記されています。それは、彼らがエズラの朗読を聞きながら、自分たちの真実と向き合わされたから、つまり、自分の罪と向き合わされ、良心に痛みを覚えたからなんですね。しかし、そんな民に向かってエズラとレビ人たちは次のように言って励まします。
『「今日は、あなたがたの神、主にとって聖なる日である。悲しんではならない。泣いてはならない。」』(ネヘ8:9)。『「行って、ごちそうを食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。何も用意できなかった人には食べ物を贈りなさい。今日は、私たちの主にとって聖なる日である。悲しんではならない。主を喜ぶことは、あなたがたの力だからだ。」』(同8:10)。
「不都合な真実」という本がありましたが、私たちは真実から目を逸らさないで、真実と向き合わなければなりません。聖書が言う真実とは、私たちの心はねじ曲がり、何よりも陰険だということです。しかし、もう一つの真実があります。それは、そんな私たちを愛し、救ってくださる主がおられるということです。あのパウロは
「罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました」(ローマ5:20b)
と言いました。「あなたこそ、私の賛美だから」。私たちも今朝のエレミヤと同じように、主を褒め称えましょう。
新聖歌
開会祈祷後:233番、メッセージ後:18番
聖書交読
詩編11篇 1~7節
2023年教会行事
8月9日(水) オリーブいきいき百歳体操
#55-2880
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