メッセージ
<民数記 14章1~10節>
牧師:砂山 智
開会聖句
モーセが私を遣わした日と同様に、今も私は壮健です。私の今の力はあの時の力と変わらず、戦争にも日常の出入りにも耐えうるものです。
<ヨシュア記 14章11節>
メッセージ内容
Youtube動画
公開が遅れて申し訳ありません。
メッセージ動画公開:4/10 PM 10:45
メッセージ原稿を公開しました。
<序論>
・「日々のみことば」4月後半は「民数記」からです。開会聖句の「ヨシュア」のみことばは、今朝の場面に登場するカレブが、それから45年後の85歳の時に語ったことばです。
それは、カレブがイスラエルの民とともに40年間、荒野を彷徨った後、約束の地カナンに入ってから5年後のことでした。今朝は「カレブの四十五年」と題して、皆さんとともにみことばに耳を傾けたいと願っています。
1.主の命により
今も申し上げましたように、モーセに率いられたイスラエルの民は、荒野で40年間彷徨うことになります。地図をご覧になれば分かると思いますが、いくら3500年前でも、エジプトからカナンの地(ヨルダン川西岸)までそんなにかかるわけがありませ
ん。普通に進めば、もっと短期間でカナンに入ることはできたはずです。しかし、40年もかかってしまった。その理由の一つが今朝の出来事にありました。
『主はモーセに告げられた。「人々を遣わして、わたしがイスラエルの子らに与えようとしているカナンの地を偵察させよ。父祖の部族ごとに一人ずつ、族長を遣わさなければならない。」モーセは、主の命により、パランの荒野から彼らを遣わした。彼らはみな、イスラエルの子らのかしらであった』(民数 13:1~3)。
この時の12人の族長(斥候)の1人がユダ族のエフネの子カレブでした。13章25節以降には彼らが偵察から帰って来て報告する様子が記されています。その中の
33節に『(私たちは)ネフィリムの末裔アナク人を見た』
とあるんですが、それは、いわゆる巨人族のことだそうです。ヨシュアとカレブ以外の10人は、『私たちの目には自分たちがバッタのように見えたし、彼らの目にもそう見えただろう』と言って、イスラエル人の心を挫けさせるのです。この不従順、不信仰こそ、彼らが40年も荒野を放浪する原因となったのです。
セールスや営業の世界でよく使われる「例話」に、ある未開の土地に靴を売りに行った二人のセールスマンの話があります。ポジティブ・シンキング(積極思考)が大切ということなんですが、ただ、今朝のカレブの場合はちょっと違うように思えます。
そんな「積極思考」こそが成功する秘訣、信仰で勝利する秘訣だ、ということではなくて、たとえ目の前の現実はどう見えても、神の約束、御心を信じて歩むことの大切さを教えてくれていると言えるでしょう。
今朝の箇所の少し前、9章18節には、荒野を旅するイスラエルの民が、幕屋の上にあった雲の動きを見て主の御心を知り、その雲が動いた時に旅立ち、動かなかった時には旅立たなかった、と書かれてあります。カレブは、今回もそれと同じように行動することを同胞たちに求めたのです。
2.御心症候群
しかし、それはそうなんですが、今朝の箇所を見ると、そんな雲のことは出てきません。だから、イスラエルの民もなかなか決心がつかなかったのかもしれませんが、私たちにとっても、神様の御心を知るということは、容易いことではないですよね。例えば、聖書の一節を自分への御心と受けとめ、一歩踏み出そうとした時、それが果たして本当にそうなんだろうか?単なる自分の思い込みじゃないのか?進むべきか、それとも止まるべきか、と悩むことは、私たちの信仰生活においても、経験することではないかと思うのです。
もう、ずいぶん前になりますが、「御心症候群」という話をさせていただいたことがありました。覚えておられるでしょうか?日本バプテスト教会連合の大野バプテスト教会の中澤啓介先生から聞いた話です。先生がシンガポールの日本人教会でご奉仕をしておられた頃に、ある一人のクリスチャンの女性の方が転職のことで迷っている、御心かどうか確信が持てない、と相談に来られたという。それで、先生は、「あなた自身は行きたいと思ってるんですか?」と、尋ねられたそうです。すると、「はい」とい
う答えが返ってきたので、「じゃあ、行ってみられたどうですか」と言ったら、「先生、そんなに簡単に決めてしまっていいんでしょうか?」という返事が返ってきたんだそうです。それで先生は、「それでは、もっと複雑な、どんな方法で判断するようにお勧めしたら、納得してくださるのでしょうか?」 ともう一度尋ねられたんですね。
彼女は、それが御心であるならば、祈ればきっと神様から何らかの示しがあるに違いないと思っていたんです。みことばが与えられるとか、幻や夢を見るとか、とにかく何か特別な啓示か宗教体験があるはずだと思っていた。そんな彼女に対して先生は、「そういう経験をした人もいるでしょうけれども、そうではない人もたくさんおられますよ。もっと率直に言えば、そういう特別な体験をした人は多くはないと思います。そして、私自身もそういう経験はほとんどありません。しかし、よく祈ってからですが、自分が一番良いと思う道を選んできました。そのようにしていつも神様の御心を行ってきました」と話されたんです。そうしたら、彼女は何かほっと安心したような顔をされて喜んで帰って行かれたそうです。そして、後日、その方から「あの時、迷っていましたけれども、先生にご相談して一歩踏み出してみて本当に良かったです」と、感謝のお便りをいただいたという。
私はこの話をすると、いつも「ピリピ」にあるパウロのことばを思い出すんですが、
『神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい』(ピリピ 2:14~15)。
少しフライングになりますが、私は「よきおとずれ」の来月号に「なるようになる?」と題して書かせてもらったんですが、私たちは、最後の最後は、神様の御心は必ずなると信じて、不平を言わず、疑わず、じたばたせず、あたふたせず、一喜一憂せずに、歩む者でありたいと願います。それは本当に難しいことではありますが。
<結論>
さて、今朝のカレブの話に戻りましょう。改めて考えてみて、神のなさったこと、つまり、彼も、不従順な同胞と同じように、40 年もの間、荒野を彷徨わなければならなかったというのは、少し酷なことだったようにも思えます。なぜなら、彼は、そんな多数派の意見に流されることなく、「主の約束を信じて進もう!」と進言したのですから。この時、不信仰な報告をした10人とそれに同調した民は荒野で死に、それに対して、カレブは生き永らえ、約束の地カナンに入ることができました。しかし、それは40年も後のことだったのです。一口に40年と言いますが、私たちの人生で40年といえば本当に長いですよね。カレブはどんな気持ちだったのかなぁ、と想像するんです。彼も人間ですから、時には悩んだり、落胆したり、そんなこともあったでしょう。今朝の開会聖句は、そんな40年とプラス 5 年後のカレブのことばです。
『モーセが私を遣わした日と同様に、今も私は壮健です。私の今の力はあの時の力と変わらず、戦争にも日常の出入りにも耐えうるものです』(ヨシュア 14:11)。
凄いです。本当にたいしたもんです。「鎌倉殿の十三人」に出て来た佐々木のじいさんや、「どうする家康」の鳥井忠吉を思い出しました。しかし、やっぱり85歳は85歳。どんなに意気軒高であったとしても、若い頃に比べれば肉体的にはかなり衰えていたでしょう。ただ、その後でカレブは次のように言うんです。12節後半。
『しかし主が私とともにいてくだされば、主が約束されたように、私は彼らを追い払うことができます』(同 14:12b)。
カレブの四十五年は、まさにそのような四十五年だったのでしょう。そして、それは、これからも。
願わくは、私たちも、そのように年を重ねてゆきたいですね。
新聖歌
開会祈祷後:275番、メッセージ後:398番
聖書交読
詩編144篇 1~11節
2023年教会行事
4月12日(水) オリーブいきいき百歳体操 10時〜11時
#55-2863
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