宣教の民

    メッセージ

    <使徒の働き 2章40~47節>
    MB寝屋川キリスト教会牧師:大山 明

    開会聖句

    そして、毎日、心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を讃美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。

    <使徒の働き 2章46~47節>

    メッセージ内容

    Youtube動画


    メッセージ動画公開:2/19 PM 2:00


    メッセージ原稿を公開しました。  

    MB信仰告白 第二部 日本メノナイトブレザレン教会はいかに神の目的に応答するか
    B 日本 MB教会は「宣教の民」である
    2.宣教の対象
    宣教は、神を信頼しない、神に反逆するこの全世界(被造物)を対象にする。創造の神はこの世界を支配しつつ、この世界が神の意思に適って変革されるように願っておられる。
     

    MB信仰告白では人間を含めた全世界(神によって作られた「被造物」が宣教の対象となっています。神が最初に造られた世界は全てに調和があり、秩序のある穏やかな状態でした。神のかたちとして造られた人間は、被造物である世界を管理する権限を神から委ねられましたが、神に反逆して罪を犯しました。そのために世界は平和と秩序を失い、死と罪とサタンに支配されるようになったのです。それで神は「新しい創造」の働きによって世界を変革し、神の平和と秩序を回復しようとされました。


    3. 宣教の働き

    1. 宣教は、神の本質である。それゆえに宣教は、教会にとって本質であり使命である。宣教は、イエスが「神の国」と呼んだ状況・状態・現実を生み出し、神の価値観をこの世界に浸透し、拡大し、実現する。神の民である教会は、聖霊の助けによって、キリストを通して人々を神との正しい関係に導く。教会は、人々を愛して彼らに仕え、人々の全人格的な必要に応える。
    2. 宣教は、神によって等しく受け入れられているキリスト者が互いに尊敬し合い、互いの違いを尊重し、協力し合って行われる。教会はキリスト者をその弟子として相応しく整え、宣教の働きへと派遣する。

    宣教とは「神の価値観をこの世界に浸透し、拡大し、実現する」ことです。この宣教の働きのために「教会は、聖霊の助けによって、キリストを通して人々を神との正しい関係に導」き、「人々を愛して彼らに仕え、人々の全人格的な必要に応える」ことが使命であるとしています。
    イエスを信じるように人々を導くことは宣教の働きの一部に過ぎません。人が信仰を持ってクリスチャンになることで宣教が完結するとは考えていないのです。私たちが取り組むのは、イエスの十字架の死による贖いを通して、神と人との関係の回復をもたらすことにあります。
    そこから人と人との関係の修復や癒やしが与えられ、さらに神と被造物全体との関係が修復されていくのです。傷ついている人が神の愛と赦しを体験して癒やされ、みことばによって励まされ、神の愛を分かち合う。そうしてこの世界に神の秩序と平和を実現し、互いに愛し合い、支え合う関係を築くのです。
    だから神によって造られた全てのもの(被造物)が宣教の対象となります。神との関係が回復することによって、社会が、そして世界全体が変えられていくのです。

    ♢ イエスが愛されたように

    イエスは十字架にかかる前、貧しい人、病人、障がい者、女性、子ども、被差別者、異邦人を受け入れ、神の恵みと祝福を宣言しました。当時こういった人々は価値のない者、けがれた者、神の祝福を失った者と見なされていました。当の本人たちもそう考えていたでしょう。しかし、イエスはこういった弱い人々を愛し、助けようとされたのです。
    一方で弱い人々を権利によって押さえつけ、差別し、自分の利益をむさぼっていた人々に対して、そのような考えや行いをやめるようにイエスは教えました。イエスご自身が社会を変革して、神の救いと平和・秩序をこの世にもたらそうとしていたのです。私たちもイエスのように福音をこの世界に広め、神の価値観を実現して「神の国」「神の支配」をこの世にもたらすように召されているのです。
    だからこそ神との関係の修復を経験したクリスチャンが集まる教会が、神による愛と平和を実現する場となることが求められます。ペンテコステの時にエルサレムにできた最初の教会がそうでした(使徒 2:42-47)。
    しかし実際の教会ではすべてが理想通りにはなりません。教会の中にも多くの問題があります。それでもただ現実逃避するだけでなく、神を信じ、みことばから力と励ましをいただいて、問題に向き合うように導かれるのです。多くの人が集っているから良い教会という訳ではありません。一人ひとりが神に選ばれ、愛されている者として、互いに愛し合い、支え合っている共同体となっているかどうかが問われるのです(コロサイ 3:12-17)。
    聖書の知識があるとかたくさんの奉仕や献金をしているかどうかでもありません。自分の考え方や世の価値観を優先するのではなく、イエスが赦されたように互いに赦し合い、イエスが愛されたように互いに愛し合うのです。お互いの責任を果たし、キリストの愛を私たちの内にも表していくのです。そこに宣教の実がもたらされます。伝道イベントを行うことよりも、互いに愛し合うことの方が宣教の働きにとって大切なのです。
    私たちが互いに愛し合う姿を通して、神の愛の素晴らしさが世に伝わるのだとイエスは言われました(ヨハネ 13:34,35)。これは家庭に置き換えれば考えやすいでしょう。子どもが信仰を持つように導く主体は家族です。信仰の継承は親の生き方に深く関わることなのです。教会でも互いに愛し合っていなければ、伝道イベントは何の役にも立ちません。宣教の成果は一人ひとりの神との交わりの豊かさや、クリスチャン同士の交わりの深さによって変わるのです。
    人が変わることを期待する前にまず自分自身が変わらなければ、キリストのような愛を表す人にはなれません。そしてあなたを変えるのはあなた自身の力によるのではありません。神ご自身が恵みによってあなたを変えてくださるのです。「神の国」「神の支配」に自分を委ねましょう。それがほんとうの意味で宣教のスタートとなるのです。

    メッセージ内容のダウンロード(PDF117KB)

    新聖歌

    開会祈祷後:38番、メッセージ後:143番

    聖書交読

    詩編141篇 1~10節

    2023年教会行事

    3月22日(水) オリーブいきいき百歳体操 10時〜11時

    #55-2860

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