メッセージ
<マタイの福音書 9章18~26節>
牧師:砂山 智
開会聖句
「信じます。不信仰な私をお助けください。」
<マルコの福音書 9章24節後半>
メッセージ内容
Youtube動画
公開が遅れて申し訳ありません。
メッセージ動画公開:2/5 PM 10:37
メッセージ原稿を公開しました。
<序論>
・今朝の箇所には二つの奇跡が記されています。会堂司の娘が死んでいたのに生き返ったという奇跡と、十二年もの間長血をわずらっていた女の人が癒やされたという奇跡です。少し前に「民数記」からのメッセージで、死人に触れた者は汚れているので過越の祭りに参加できないという話がありましたが、イエス様の時代も、「死と病(出血)」は穢れ(ケガレ)の象徴とされていたのです。それはかつての日本でも同じでした。そして差別もありました。ただ、先日、読売新聞に連載されていた養老孟子さんの一文(時代の証言者)を読んで、今はまた違った理由でそのようなものを避けるというか、見て見ぬふりをする、そんな社会になったのかなぁと思わされました。それは次のような一文です。
「昨年、講談社から絵本『「じぶん」のはなし』(絵・よこやまかんた)を出しました。みんなのからだを大きくするための材料は、田んぼや畑、海や山でとれた植物や動物だと伝え、こう書きました。だから、「たんぼも、じぶん」「はたけも、じぶん」……。「じぶんは しぜんで できている。そうでしょ?」でも、今の若い人はそう思っていない。田んぼ? 俺とは関係ねえ、と思っている。それどころか自分の吐いたつばを汚いと思い、うんこも今の子は汚いと嫌がる。どっちも身体の中にあったもので自分の延長です。それを汚いと思うのは、自分の延長である死体を汚らわしいと思うのと同じです。(解剖学者)」
「時代の証言者」なるようになる。養老孟子<9> 読売新聞2023年1月31日掲載
旧約律法にある戒めは神様がお命じになられたことなので、結局、私たちにはその理由は分からないんですが、養老さんの一文を読んで、先週もお話ししたように、私たち人間は「生かされている受け身のもの」なんだなぁ、と改めて思わされました。
1.会堂司の娘
さて、今朝の箇所は、「マルコ」と「ルカ」に並行記事があり、そちらのほうが「マタイ」よりも詳しく記しています。「マルコ」を読むと、この会堂司の名前はヤイロといい、イエス様が出席されたカペナウムのユダヤ教の会堂司(長老)の一人であったということが分かります。また、「ルカ」には、彼の娘は十二歳ぐらいで一人娘であったと記されています(ルカ8:42)。そして、「マルコ」も「ルカ」も、この会堂司がイエス様に願った様子を『懇願した(前の訳では「いっしょうけんめい願ってこう言った」」』と表現しています。当時のユダヤ教の指導者の一人であった彼が、多くの群衆の見ている前で、どこの馬の骨とも分からないようなイエス様の前にひれ伏し、懇願するというのは、驚くべき光景であったでしょう。先日、NHKの「ファミリーヒストリー」という番組で、俳優の伊藤英明さんの子どもの頃の話が紹介されていました。彼は幼いころ重い腎臓病で苦しんだのですが、その時のことを思い出して、お母さんが「我が子が病気で苦しんでいる姿を見るのは、親にとって地獄のような苦しみでした」と話しておられました。本当にそうだろうなと思いました。親にとって、自分の子どものいのちというものはかけがえのないものです。できることなら、自分が代わってやりたいと思ったことでしょう。今朝の会堂司もそうだったと思います。本当に恥も外聞もなく、自分の体面など、ドブに捨てても惜しくないという思いで、彼はイエス様の足下にひれ伏し、必死に願ったのです。
2.長血の女
そして、この会堂司の話の間に、いわゆる「長血の女」と呼ばれている一人の女性の癒しの奇跡が記されています。やはり、並行記事の「マルコ」を見ると、
『彼女は多くの医者からひどい目にあわされて、持っている物をすべて使い果たしたが、何のかいもなく、むしろもっと悪くなっていた』(マルコ5:26)
とあります。この女性の病気の正式な病名は分かりませんが、旧約の「レビ記」15章によると、当時、このような女性は、宗教的に汚れた者とみなされ、差別の対象とされていました。この女性は12年もの間、病気による苦痛、辛さだけでなく、頼りとするべき医者にも裏切られ、全財産を失い、人々からの差別の中、生きてきたのです。先の会堂司ヤイロの場合とは異なりますが、そんな彼女にとって、やはり大勢の群衆に取り囲まれたイエス様のもとに出てくることは大変な勇気のいることだったと思います。ですから、彼女は、ただ群衆にまぎれてイエス様の衣の房に触れ、誰にも知られることなく病気を直してもらおうと考えたのでしょう。それは本当に、彼女ができる精一杯のことだったと思います。この時、イエス様は大勢の群衆に取り囲まれていましたので、衣の房に触る人は彼女以外にもいたと思います。ですから、私たちでしたら長血の女に気づくこともなかったでしょう。しかし、「マルコ」が
『自分のうちから力が出て行ったことにすぐ気がつき』(同5:30)
と記しているように、イエス様はご自分のうちから神の力が流れ出て行ったことにすぐ気がつき、後ろを振り向いて彼女を見て言われたのです。「「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」と。
実は、このことばは、前の訳では「あなたの信仰があなたを直したのです」となっていました。そして、「直した」ということばに※印がつけられ、脚注に※直訳「救った」と書かれていたんです。新改訳は、【2017】から直訳を採用したわけですが、その理由は分かりません。原典のギリシア語では「ソーゾー(ソーゾマイ)」ということばなんですが、「直した」という訳は、病気の癒しだけを連想させます。しかし、「救った」という訳は、病気の癒しだけでなく、先程、お話ししたような、その病気に付随する社会的な差別、偏見からの救いまでも意味しているように思えます。そして、それはさらに言えば、このイエス様のことばは、一時的、この世的な問題の解決を告げることばではなく、私たち人間にとって最も大切で根本的な問題の解決、魂の救いを告げることばのように思えます。
<結論>
今朝の開会聖句は、「マルコ」が記している、悪い霊につかれた息子を癒してもらった父親のことばです。この息子の父親は、最初イエス様に、「おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください」と願います。そんな父親に向ってイエス様は「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです」と返されます。そのことばに反応して父親が叫んだのが、「信じます。不信仰な私をお助けください」なんです。ですから、これはことばというよりも、彼の心の底からの叫びと言った方がいいでしょう。
今朝の会堂司や長血の女、そして、今、お話しした、悪い霊につかれた息子を癒してもらった父親に共通するものとは何でしょうか?それは、ある意味、単純とも言える「お助けください」という一念ではなかったか、と思わされました。彼らの信仰は、所謂「正しい教理」に裏付けされたような信仰ではありませんでした。あえて言えば、多分にご利益的、呪術的、無自覚的な信仰であったと言えるでしょう。しかし、イエス様は、彼らのそんな信仰を正すというか、「正しい信仰」を教え諭されてから、その切なる願いを受け入れ、病を癒し、死んでいた者を生き返らせてくださったのではないのです。彼らの「お助けください」という一念をそのまま受け止め、その思いに応えてくださったのです。自分の信仰はどうかなぁ、と思わされます。最後に、先週もご紹介しましたが、藤木師の短いことばを読ませていただき、今朝のメッセージを閉じたいと思います。
「信仰の正しさをはかるものは、正しい教理ではなくて、「お助けください」の一念のあるなしです。なぜなら、この一念のあるところに、イエスご自身が気付かれなくても流れて出て行くのが、神さまの恵みなのですから」
「この光にふれたら」 藤木正三著 日本基督教団出版局 P126
新聖歌
開会祈祷後:199番、メッセージ後:349番
聖書交読
詩編135篇 1~12節
2023年教会行事
2月8日(水) オリーブいきいき百歳体操 10時〜11時
#55-2854
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