メッセージ
<ヨハネの福音書 13章1節~11節>
信徒:K
開会聖句
しかし、これを聞いているあなたがたに、わたしは言います。あなたがたの敵を愛しなさい。あなたがたを憎む者たちに善を行いなさい。
<ルカの福音書 6篇27節>
メッセージ内容
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メッセージ原稿を公開しました。
<はじめに>
・昨年はイエスさまのしるしによる宣教の最後、ラザロの復活という、区切りのいい箇所で終わりました。今日からヨハネの後半部分です。前半は2~3年間にあった色々な出来事でしたが、ここから復活までの後半は僅か数日、十字架まで一日もありません。皆さんは、もし自分の地上で残された日が数日とわかったら、最期に何をしようかなんて、考えたことはありませんか?食べたいものを食べる、会いたい人に会う、見られたくないものを処分する、言い残すことを書き記すなど。今まで多くの人たちの間で働いてこられたイエスさまは、最後の時間を12弟子と過されました。そのときのイエスさまの行為は非常に驚くべきもの、印象的なものでした。何がそんなに私たちに驚くべきことなのでしょうか。今日はそれを考えてみたいと思います。主題は「最後まで愛したイエスの愛」。
Ⅰ.イエスは弟子たちのためにしもべとなられた
弟子たちとの最後の食事の時、イエスさまがされたことは共観福音書ではこうです。
マルコ14:22「…弟子たちに与えてこう言われた。『取りなさい。これはわたしの身体です。…これは多くの人のために流される、わたしの契約の血です。』」
ここに基づき、教会は聖餐式を行っています。しかし、ヨハネ福音書はそれを記さず、イエスさまが弟子たちの足を洗われた行為を記しました。今年の教会暦では、4月7日が受難日。カトリック教会では、その前日の木曜日を「聖木曜日」として、互いの足を洗い合う「洗足式」をずっと行なっているそうです。
ヨハネはその様子を
1節「イエスは…世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。」
と記しました。タイトル通り、十字架目前の最後のときまで、弟子たちを愛されたと言っています。 当時、外出帰りの土と埃で汚れた足を洗うのは奴隷の仕事でした。この場には奴隷はいなかったようで、13人は汚れた足のままで食事をすることになりました。彼らの姿勢は横たわった状態。机で足が隠れているわけではありませんから、汚い足が目につきます。「汚いなあ」と思いながら、彼らは食事をしていたのでしょう。すると突然、イエスさまが立ち上がり、上着を脱ぎ、手ぬぐいを腰にまとい、たらいに水を入れて、皆の足を順番に洗い、拭いていかれました。弟子たちは思いがけないイエスさまの行動に戸惑ったでしょう。ペテロの番になったとき、彼は、「決して洗わないで」と拒みました。「イエスさまに洗ってもらうなんて」という皆の気持ちを代弁したようですが、「私が代わります」とは言いません。否、言えませんでした。それは足を洗うことは奴隷の仕事だったからです。弟子たちには「そんな奴隷のするような仕事なんてできないよ」というプライドがあったからではないかと思うのです。
昔「男子厨房に入らず」という言葉がありました。台所の仕事は女性の仕事でした。今は随分変わりましたが、今でもその考えの方はいると思います。その考えで育った男性は、女性が病気で寝込んだとき、「ゆっくり休んでいたらいい」といたわりつつ、「俺の飯は?」と聞いてきます。食事のことは女性の仕事で、男である自分がするという発想が全くありません。弟子たちもよく似ています。「イエスさまに足を洗わせるなんて恐縮です」と言いつつ、その奴隷の仕事を自分がしようという考えには及ばない。むしろ、弟子たちはイエスさまの危険に全く鈍感で、イエスさまが群衆に大歓迎され、エルサレムに入ったとき、イエスさまが王になったら、次は誰が1番、2番だろうなんて、人の下になることより上を目指していたと思います。
前々週に「十日戎」がありました。子どもの頃、よく行っていました。商売する人は色々縁起担ぎをします。お店の店先に「招き猫」置かれています。信楽のたぬきも有名。なぜたぬきを置くのか最近知りました。たぬきは「他抜き」他を抜くと書き、自分の商売が他を抜いて繁盛することを願うからです。他を抜いて、人の上、先に行くことは、人間の生まれつきの性質です。
イエスさまはそんな弟子たちのことが気がかりで、最後の時間まで、しもべとして他者に仕えることの模範を示されました。パウロは
「キリストは神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿を取り…」(ピリピ2:6)
と言いました。イエスさまは、人間に仕えるしもべになるために神のあり方を、ここでは、先生という立場を超えられ(捨てられ)ました。私たちも皆、それなりにプライドや自負心というものを持っています。正しく、必要なプライドもありますが、しかし、人を愛するとは、そういう自分の立場を超えること、自分の枠を出ることだというのが、「洗足の儀式」の大切な精神だと思います。
Ⅱ.イエスは裏切るユダに極みまでの愛をしめされた
イエスさまには、もう一つ気がかりがありました。
2節「…悪魔はすでにシモンの子、イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。」
ユダはまだ裏切ってはいませんが、イエスさまは彼の心をご存知でした。18節で、ユダの裏切り行為は「わたしのパンを食べている者が、わたしに向かって、かかとを上げます。」という詩篇の預言の成就だと言われました。それはダビデが信頼してきた人物に裏切られた体験を語ったもので、ダビデは度々他の箇所でもその辛さを告白しています。そこには人を呪う過激なことばがあって、こんなひどいことを神さまに祈っているのかと驚くのですが、しかし、人は信頼してきた人に裏切られたとき、そういう風に思ってしまうものではないでしょうか。ユダの選びは私たちには理解できない部分です。しかし、数年間苦楽を共にし、愛を注いできた弟子に裏切られることは相当な痛みであって、イエスさまはそれを感じなかったとは思えません。悲しみと怒りの複雑な感情を抱えながら、イエスさまは他の弟子たちとユダの足を分け隔てることなく洗われたと思います。
この場面での会話はイエスさまとペテロのものですが、当然、他の弟子たちにも聞こえたのではないでしょうか。3つのことが言われてます。
「わたしがしていることは今わからなくても、あとで分かるようになる。」(7)
「わたしがあなたを洗わなければ、あなたとわたしと関係がないことになる。」(8)
「水浴したものは足以外あらう必要がない。…あなたがたはきよいが、皆がきよいわけではない」(10)
これらのことばは、普通は後の十字架の罪のきよめを指すことばと言われています。でも、私はユダに対しては暗にこういうメッセージが込められていたのではと思うのです。「ユダよ、おまえが弟子の中でただ一人、まだ、わたしを信じることができないでいることをわかっている。でも、今わからなくてもいい、もうすぐわかるから。わたしはあなたの罪のために死ぬ、あなたの罪を赦すメシアだ。わたしはこれからも、あなたとの関係を持ち続けたい。裏切らないで欲しい。わたしにとどまれ。」イエスさまは最後まで、ユダの心に語りかけられます。
この「最後まで」ということばは、脚注では「極みまで」とあります。他の日本語聖書も調べましたが、「最後まで」という時間的な意味合いと、「これ以上はない」という程度を表わすことばの両方を含むようです。パウロはこの私たちへのイエスさまの愛を
「人知をはるかに超えたキリストの愛」(エペソ3:19)「その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができるように」
と文学的な言い回しをしましたが、イエスさまご自身は、別の箇所で具体的にこう言われました。それは今日の開会聖句です。
ルカ6:27「しかし、これを聞いているあなたがたに、わたしは言います。あなたがたの敵を愛しなさい。あなたがたを憎む者たちに善を行ないなさい。」
そのあとにこう続きます。
「自分を愛してくれる者たちを愛したとしても、あなたがたにどんな恵みがあるでしょうか。…自分に良いことをしてくれる者たちに良いことをしたとしても、…」
先には、しもべとは自分の枠を超えて、他者の必要に応えることだと教えられましたが、イエスさまのユダに対する極みまでの愛も、「敵を愛する」「憎む者たちに善を行なう」という人の自然な思いを超えた愛でした。それは、私たちが自分の中にはじめからあるものでも、感情によって生まれるものでもなく、神の愛を見せられ、愛される経験をして、わかり、生まれてきます。
<終りに>
今日のところから教えられることは2つです。1つは最後まで、極みまで愛したイエスの愛とは、自分の枠を超える愛、人の限界や常識を超える愛だということ。2つめは、私たちに求められている愛は、イエスさまの愛を見せられ、体験して生まれる愛だということです。ヨハネがあえて、聖餐式の基になる場面を記さず、洗足のことを記したのは、日常的な出来事の中で、私たちが具体的な行動として、愛を見えるものとすることを期待したからではないでしょうか。今年も私たちは神に愛されている者として、必要ならば、自分のプライドを捨て、枠を出て、愛をあらわす者となりたいと思います。
新聖歌
開会祈祷後:154番、メッセージ後:286番
聖書交読
詩編133篇 1~3節
2023年教会行事
1月25日(水)オリーブいきいき百歳体操(10時~11時)
#55-2852
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