今を生きる

    メッセージ

    <伝道者の書 3章1~11節>
    牧師:砂山 智

    開会聖句

    見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。

    <コリント人への手紙第二 6章2節後半>

    メッセージ内容

    Youtube動画


    メッセージ動画公開:12/4 PM 4:53


    メッセージ原稿を公開しました。  

    <序論>  
    ・旧約では「ヨブ記」「箴言」そして「伝道者の書」の三つを知恵文学と呼びます。ヘブル語聖書では、本書の名前は「コレヘト(コーレヘス)の言葉」といいますが、「コレヘト」とは「集める者」、或いは「伝道者」という意味です。著者については、1章 1節にある

    『エルサレムの王、ダビデの子、伝道者のことば』

    というみことばから、ソロモン王というのが伝統的な考え方ですが、聖書学者の中には、ソロモン自身に由来する何らかの伝承があって、それを後のマラキの時代にまとめたものではないか、と考える人もいるようです。本書には本当に多くの名言が出てきますが、興味深いのは、その名言の中に、ともすれば此岸的(この世的)とも言われる旧約ではあまり見られないようなもの(ビターな味わい?)
    があることです(7章 15節など)。そのこととも関係があるかもしれませんが、ある方は、本書の主題は人生における価値の探求である、と述べておられました。

    <本論>
    1.空の空

    ソロモン王は、皆さんもよくご存じのように、神から素晴らしい知恵を与えられ、古代イスラエル王国に黄金時代をもたらした名君です。ただ、本書の書き出しは、そんな彼の経歴とは凡そ似つかわしくないような感じがします。

    『空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか』(伝 1:2~3)。

    『空(へベル)』とは「息」とも訳すことができることばです。それは、すぐに消えてしまう「虚しい」ものという意味です。今も申し上げましたように、この世の栄華を極めたとまで言われたソロモン王。知恵も力も名誉も、この世の快楽も富も、人がうらやむもの全てを手にした王でした。しかし、そんな彼の心の中は虚しさで一杯だったのです。不思議なものです。ただ、逆に言えば、そんな人生を送ったからこそ、私のような平凡な人間には到底計り知ることのできない、この世の虚しさというものを、より一層感じたのかもしれません。
    日本の「平家物語」の冒頭にも次のようなことばがありますよね。
    「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理(ことわり)をあらわす おごれる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし」。
    ソロモンの王国は、彼の死後、様々な問題が一気に噴出して、北と南に分裂します。まさに「諸行無常」ということですが、そんなソロモンが、人生の虚しさの向こうに見たもの、到達した一つの境地のようなものがあったとするならば、それが、今朝、読んでいただいた 3章のことばだったのではないかと思うのです。

    『すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。』(伝 3:1,2a)。

    そして、

    『神のなさることは、すべて時にかなって美しい』(同 3:11a)

    ということですね。

    2.主が彼に呪えと言われたから

    「日々のみことば」今月号の執筆者は、この箇所について次のように書いておられました。
    「これらの一つひとつが、自然現象というよりは、人間の行動や感情を表すものになっていることに注意しましょう。私たちは自然の背後には神の介入を認めているかもしれません。しかし、あらゆる人間の行動や感情の背後にさえ、神のご計画があることを信じているでしょうか。神さまを知らない人々による、感情的な行動に見えるものの背後にさえ、みこころが関与していることを信じる人は、他の人の言動に失望や批判だけを向けてしまう過ちから守られます」。
    10月に「IIサムエル」からお話ししましたが、その16章に、息子アブサロムの謀反によって宮殿を追われ、都落ちするダビデ王の惨めな姿が描かれています。そんなダビデに、先代の王サウルの一族のシムイという男が呪いのことばを投げかけます。

    『シムイは呪ってこう言った。「出て行け、出て行け、血まみれの男、よこしまな者よ。主がサウルの家のすべての血に報いたのだ。サウルに代わって王となったおまえに対して。主は息子アブサロムの手に王位を渡した。今、おまえはわざわいにあうのだ。おまえは血まみれの男なのだから。」』(IIサム 16:7~8)。

    そのことばを聞いたダビデの家来のアビシャイは激しく憤り、

    「行って、あの(男の)首をはねさせてください」と願いますが、ダビデはそれを許さず「彼が呪うのは、主が彼に「ダビデを呪え」と言われたからだ。(中略)放っておきなさい。彼に呪わせなさい。主が彼に命じられたのだから。おそらく、主は私の心をご覧になるだろう。そして主は今日の彼の呪いに代えて、私に良いことをもって報いてくださるだろう」(同16:10,11)

    と答えるのです。まさに、ここには、すべては神のみこころなのだと信じ、受け入れようとするダビデの姿があります。

    3.生まれることと死ぬこと

    ただ、今、そのように申し上げたところで、その「日々のみことば」の執筆者の方に反論するわけではないんですが、これだけは人間の行動や感情によるものとは言い難いのではないか、と思ったことがありました。それは、最初にあった生まれることと死ぬことです。この二つだけは、私たち人間の行動や感情に左右されない、それらを超えたものではないかと思うのです。先日、T兄が召天され、その葬儀式が行われましたが、その葬儀式が終わってしばらくして、ちょうど1年ほど前に K姉が天に帰って行かれたなぁ、と思い出していました。私たちにとっては、特にご遺族の皆さんにとっては、たとえ一分でも、一秒でも、長く生きていてほしかったというのが正直なお気持ちであったと思いますが、本書の著者が言っているのは、人がこの世に生まれてくることも、そして死んでゆくことも、すべて神のなさることであり、神の時があるということだと思います。

    私の母は7年少し前に亡くなったんですが、生前、今朝の 3章11節のみことばが好きだ、とよく言ってました。なぜ好きだったのか?その理由は分からないんですが、母は母なりに何か感じるところがあったのでしょう。母は50代になってから「統合失調症」を発症したのですが、所謂「不穏状態」になることがよくありました。特に父が脳梗塞で入院し、寝たきりになってからは、一層ひどくなったんですが、気になる事はどんな事でも何度も何度も確認しなければ気が済まない。同じことでも繰り返し聞かないと安心できない。そんな母に私は何度も声を荒げたりしました。まぁ、母は病気だったからなんですが、考えてみれば、心配するということは人間特有のことなのかもしれません。また、その時代に生きた人間にしか分からない心配というものもあるでしょう。聖書の時代に生きた人たちには、今の私たちには想像もできないような心配があったと思います。そんな人たちに向かって、イエス様は、

    「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか」(マタイの福音書 6:27)

    と言われました。それは言い換えれば、人が死ぬ時というのはまさに「神の時」「神が定めた時」なんだよ、ということではないでしょうか。そして、イエス様は、その後で、栄華を極めたソロモンについて言及された後、次のように言われたんです。

    「ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」(同 6:34)。※昔の文語訳では「一日の苦労は一日にて足れり」。

    <結論>

    最後に今朝の開会聖句をもう一度ご覧ください。2 節前半から読ませていただきます。

    『神は言われます。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。」見よ、今は恵みの時、今は救いの日です』(コリント人への手紙 第2 6:2)。

    今年も、もうすぐクリスマスです。イエス様が私たちの世界に来てくださったことによって、今は恵みの時、今は救いの日となりました。私たちの日常は平凡なことの積み重ねにしか過ぎないかもしれませんが、その平凡な日常を、今を切り捨てずに、深く大切に生きてゆきましょう。恵みの時、救いの日として。

    メッセージ内容のダウンロード(PDF101KB)

    新聖歌

    開会祈祷後:68番、メッセージ後:70番

    聖書交読

    詩編127篇 1~5節

    2022年教会行事

    12月7日(水)オリーブいきいき百歳体操(10時~11時)

    #54-2845

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