メッセージ
<サムエル記第2 15章23~37節>
牧師:砂山 智
開会聖句
ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。
<マタイの福音書 10章16節後半>
メッセージ内容
Youtube動画
公開が遅れて申し訳ありません。
メッセージ動画公開:10/16 PM 11:58
メッセージ原稿を公開しました。
<序論>
・「Ⅱサムエル」からの三回目です。先週のメッセージでは、ダビデの生涯における最大の失敗・罪について見ました。神は、預言者ナタンを遣わし、その罪に対する裁きとして、バテ・シェバとの間に生まれた子の命を奪うと告げられます。ダビデは赦しを求めて必死に祈りますが、その祈りも空しく、子どもは死んでしまいます。そして、そのことを知った時、ダビデの態度は一変します。彼は「しかし今、あの子は死んでしまった。私はなぜ、断食をしなければならないのか。あの子をもう一度、呼び戻せるだろうか」と言って、罪赦された者らしく振舞ったのです、と先週お話ししました。しかし、実際には、この時のダビデの心中はどうだったでしょうか?後から改めて考えてみたんですが、自分が蒔いた種とはいえ「顔で笑って心で泣いて」というような心境だったのではと思わされました。そしてナタンは主からの裁きを告げる中で、「今や剣は、とこしえまでもあなたの家から離れない」という不気味なことを預言しました。それが現実のものとなるのです。
1.反逆者アブサロム
今朝のテキストは15章ですが、先週お話しした12章から今朝の15章までは、目を覆いたくなるような恐ろしい事件の連続です。まず、ダビデの息子の一人であったアムノンが腹違いの妹タマルに一方的に思いを寄せ、無理やり関係を持ちますが、その後、手の平を返すように彼女を追い出します。そのことを知ったタマルの同母兄のアブサロムはアムノンを激しく憎むようになります。
『ダビデ王は、事の一部始終を聞いて激しく怒った』(Ⅱサム13:21)
とありますが、何かアムノンに対して罰を下したとは記されていません。もしかしたらダビデは、バテ・シェバとのこともあって、アムノンに対して強く言えなかった、直接本人にその罪を指摘することができなかったのではないでしょうか。そして、更に悲劇は続きます。アムノンへの憎しみを募らせたアブサロムは一計を案じて彼を罠にはめ、殺してしまうのです。アブサロムは逃げ、ゲシュルという町で三年間、逃亡生活を送ることになります。やがてダビデの将軍ヨアブの計らいによって帰国が許され、やっと父ダビデとの和解も叶ったように見えたのですが…。15章をご覧ください。
『その後、アブサロムは自分のために戦車と馬、そして自分の前に走る者五十人を手に入れた。アブサロムはいつも、朝早く、門に通じる道のそばに立っていた。さばきのために王のところに来て訴えようとする者がいると、アブサロムは、その一人ひとりを呼んで言っていた。「あなたはどこの町の者か。」その人が「このしもべはイスラエルのこれこれの部族の者です」と答えると、アブサロムは彼に、「聞きなさい。あなたの訴えは良いし、正しい。だが、王の側にはあなたのことを聞いてくれる者はいない」と言っていた。さらにアブサロムは、「だれか私をこの国のさばき人に立ててくれないだろうか。訴えや申し立てのある人がみな、私のところに来て、私がその訴えを正しくさばくのだが」と言っていた。人が彼に近づいてひれ伏そうとすると、彼は手を伸ばし、その人を抱いて口づけしていた。アブサロムは、さばきのために王のところにやって来る、すべてのイスラエルの人にこのようにした。アブサロムはイスラエルの人々の心を盗んだ』(Ⅱサム15:1~6)。
14章25節を見ると、アブサロムは非常に美男子で、非の打ちどころがなかったとまで記されていますので、彼は人々の間で、言わばアイドル的な人気を博したのではないかと思います。アブサロムは用意周到に準備を整え、クーデターを起こすのです。ダビデはそのことを知ると、すぐにエルサレムから逃げ出します。それは、「イスラエルの人々の心はアブサロムになびいています」という報告を聞いたからでした。30節には、そのダビデが都落ちするときの姿が描かれています。何度読み直しても、「あの権勢を誇ったダビデが、なんと惨めな…」と思わずにはいられない場面です。
2.主が良いと思われることを
今朝のこれらの出来事を通して私は二つのことを示されました。その一つは、前半にあったダビデが神の箱をエルサレムに返したことです。神の箱にまつわる事件については既にメッセージでお話ししました。一つは、「Ⅰサムエル」4章のペリシテ人との戦いで神の箱が奪われ、祭司エリの二人の息子とエリ自身も死んだという事件。もう一つは、「Ⅱサムエル」6章の、神の箱が荷車からずり落ちそうになって、それを支えようと手を伸ばしたウザが神に打たれて死んだという事件です。ダビデはもちろん、その二つの事件のことをよく知っていたでしょう。神の箱は神のご臨在を証しするものではありますが、人間が神を「我がもの」とするために利用するもの、否、利用できるようなものではないということを。だから、ダビデは祭司ツァドクとエブヤタル、そして、その二人の息子たちに神の箱を返すようにと命じたのです。その時のダビデのことば、
26節の「主が良いと思われることをこの私にしてくださるように」
ということばには、絶体絶命のピンチの中にあっても、最後は自分の願うようにではなく、神のみこころが成るようにと願う、彼の信仰者としての姿が伺えます。
3.二人をよこして
そして、今朝の場面からもう一つ示されたことは、ダビデがアルキ人フシャイに命じたことです。フシャイに関する聖書の記述は少ないのですが、「Ⅰ歴代誌」27章33節には次のようにあります。
『アヒトフェルは王の助言者で、アルキ人フシャイは王の友であった』(Ⅰ歴27:33)。
この王の友というのは単なる王の友人のことではありません。公の役職名で、王の顧問、相談役というような役割を担った人物と考えられています。フシャイは都落ちするダビデに会って、自分も連れて行ってほしいと願ったのでしょう。しかし、この時、彼はもう高齢になっていましたので、33節にあるように、そんなことをすれば返って自分の重荷になる、とダビデは考えたのだと思います。ですからダビデは、彼に都に戻り、自分を裏切ってアブサロムの謀反に荷担したアヒトフェル(バテ・シェバの祖父)の助言を打ち破り、先にエルサレムに帰らせた二人の祭司らと連携してアブサロムの動静を伝えてくれるように頼んだのです。
<結論>
私は、このダビデの姿から、今朝の開会聖句、イエス様が弟子たちを遣わすときに命じられたみことばを思い出しました。
『ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。』(マタイ10:16b)。
聖書の中でもよく知られている、クリスチャンではない方々にも度々引用されることばですが、皆さんの中には、後半の「鳩のように素直でありなさい」ということばはすんなりと受け入れることができても、前半の「蛇のように賢く」ということばには、「ちょっとそれは…」と抵抗を覚える方もいらっしゃるかもしれません。この「賢く」と訳されているギリシア語は、「分別のある」「思慮深く」「注意深く」とも訳せることばなんですが、今朝のダビデの姿には、神の前でへりくだる純粋な信仰者の姿と、もう一方では、したたかなと言いますか、転んでもただでは起きない、手を打つべきことはしっかりと手を打つ、抜け目のない策略家の姿も感じさせられます。けれども、ダビデの生涯を振り返ったとき、彼は本当に「戦いの人」「戦いに生きた人」であったと思うんですね。その戦いの中で生き抜いてゆくためには、蛇のような賢さ、そして鳩のような素直さを併せ持つことが何よりも求められたのではないでしょうか。
先週、ある方と手紙やメールを通して交わる機会があったんですが、ダビデとまではいかなくても、それぞれに、その人にしか分からない厳しい人生の戦いというものがあるんだなぁ、ということを改めて思わされました。蛇のように賢く、鳩のように素直に、主のみこころを求めつつ、それぞれの人生の馳せ場を駆け抜けて行きましょう。
新聖歌
開会祈祷後:206番、メッセージ後:283番
聖書交読
詩編120篇 1~7節
2022年教会行事
10月19日(水)オリーブいきいき百歳体操(10時~11時)
#54-2838
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