もう一つの世界

メッセージ

<ヨハネの福音書 9章13~23節>
メッセージ:信徒:K

開会聖句

そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」

<ヨハネの福音書 9章39節>

メッセージ内容

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メッセージ原稿を公開しました。 

<はじめに>  
・最近、近くに小さな八百屋さんが出来ました。品数は多くないのですが、便利がいいからか、結構お客さんが入っているようです。私たちは旬でなくても、殆どの種類の野菜を一年中食べることができます。いつも食べることが出来、安くて重宝される野菜の1つに「もやし」がありますが、中国では、このもやしは「春を代表する野菜」で、「生命を象徴する存在」だそうです。もやしは大豆や緑豆をわざと日光に当てないで発芽させた野菜で、最近人気の高いスプラウト(発芽野菜)の仲間です。生命を象徴する野菜なので、中国の伝統料理チュンピン(立春に食べる春餅)には欠かせない具材の一つです。私たちがイースターに卵をいただくのと少し似ていますね。もちろん、イースターのいのちは、イエスさまの復活から始まる全く別物のいのちですが。ヨハネ福音書には、そのいのちを得た人たちが多く登場します。先月お話した、生まれつき目の見えなかった男性もそのひとりで、今日も彼が主役です。彼の役割は、いつものイエスさまに代って、パリサイ人たちとの議論の相手です。少し前まで、物乞いをし、罪人と呼ばれた社会の最下層にいた人物が、パリサイ人たちが投げかける質問を受けて立ちます。さて、結末はどうなったでしょうか。

<本論>
Ⅰ.罪人の証言は受入れられなかった

生まれつき目の見えなかった男性がいやされると、あまりの驚きにちょっとした騒ぎになったところで、前回は終わりでした。最後の8~12節の会話を拾って読みます。 「これは座って物乞いをしていた人ではないか。」 「そうだ。」「違う。似ているだけだ。」「私がその人です。」 「では、おまえの目はどのようにして開いたのか。」 「イエスという方が泥を作って、わたしの目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい。』と言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」 「その人はどこにいるのか。」「知りません。」

こういういきさつで、彼はパリサイ人の所に連れてこられました。彼のいやしが行われたのは安息日でした。パリサイ人の考えでは、いやした人は律法違反をしているのだから、断じて神から遣わされた者ではないのです。しかし、数あるいやしの中でも、これは非常に説得力のあるもので、パリサイ人の中でも分裂が起こるほどです。イザヤ書のいくつかのメシア預言(29:18,35:5)に記されています。そのため、パリサイ人たちは何とか、彼に証言を撤回させようと、同じ質問「どうやって見えるようになった?」を繰り返しますが、彼の答えは前より簡潔です。

15節「あの方が私の目に泥を塗り、私が洗いました。それで今は見えるのです。」

イエスという名前すら出さず、自分が見えるようになった事実だけを述べます。両者の会話はイエスさまの場合なら「議論」と言えますが、彼の場合はまるで裁判の「尋問」のようです。両者の立場は対等ではなく、パリサイ人たちはユダヤ社会の宗教の指導者という立場を使って、彼の証言をねじ曲げようとしたのです。

彼の証言の内容は要約すると2つです。1つは「生まれつき目が見えなかったのに、今は見えるようになったこと」2つめは「いやした方は預言者だと信じていること」です。もし、今まで座って物乞いをしていた彼が、そのことを言いふらしながら、町中を歩かれては大変困ります。パリサイ人は1つめのためには、彼を退け、両親を呼び出し尋ねました。「この人は、あなたがたの息子か。盲目で生まれたのは本当か。それならどうして今は見えるのか。」すでにイエスさまを支持する者は、会堂(ユダヤ社会)からの追放が決まっていましたから、彼よりも世間というものをよくわきまえた両親に、事実を曲げさせようとしました。しかし、彼らは巧みに答えました。「盲目で生まれたこと」はそうだといい、「どうして見えるようになったか」については「もう息子は大人だから本人に聞いてください」と、息子に振ります。この態度は卑怯に見えますが、責められないと思います。両親にとって、大きな圧を感じながらの精一杯の返事でした。

「生まれつき目が見えなかった」という事実を翻す事が出来なかったパリサイ人たちは、次に本人に「いやしを行った人物は罪人だ」と言わせようとします。24節「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っている。」 28節「おまえはあの者の弟子だが、私たちはモーセの弟子だ。神がモーセに語られたことは知っているが、あの者についてはどこから来たか知らない」と彼をののしり、ありったけの虚栄を張ります。彼はその言い分に呆れて答えます。30~33節「これは驚きです。あの方がどこから来られたのか知らないとは。…盲目で生まれた人の目を開けた人がいるなどとは、聞いたことがありません。あの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできなかったはずです。」 自分たちの権威になびかず、反対に罪人に諭される羽目になったパリサイ人たちは、とうとう彼を自分たちの社会から追放することで、彼の口を封じたのです。罪人の証言は受入れられませんでした。

Ⅱ.罪人の証言は彼を恵みの世界に導く

しかし、追放された彼をイエスさまは見つけ出し、自分のことを明かされると、彼はイエスさまを信じ、礼拝しました。彼はイエスさまのことを全然知らなかったのですが、「私の目を開けてくださったのは神から出た者だ。」という思いは、パリサイ人たちとの尋問によって深められ確かになり、イエスさまを約束のメシアとして信じるように整えられていました。

ヨハネ6:29「神が遣わした者をあなたが信じること、それが神のわざです。」

とあるように、神のわざが起きたのです。
ヨハネが最も伝えたかった「だれの罪のせいでもなく、この人に神のわざが現れるため」の神のわざとは、罪人の心の目が開かれ、イエスさまを信じることでした。いやされた彼は、ユダヤ人社会を追放されるという大きな犠牲を払いましたが、一番大切なものを得たのです。父が子であるイエスさまに託された神のいのちで、ヨハネはそれを「永遠のいのち」と呼びます。ユダヤ人たちもそれを求めていましたが、得ることができませんでした。彼らが、自分たちの無知を知らず、高慢になり、自分が見えると言い張ったからです。 この両者の対決の結末は、今日の開会聖句39節後半「目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となる」でした。 神さまの判定は、自分の知識や力を誇る者には神の恵みの世界が閉ざされ、自分の無力や弱さを知る者には、神の幸いな恵みの世界が開かれるという逆転の世界でした。1つの詩を紹介します。「ニューヨーク大学のリハビリテーション病院の壁に書かれた一患者の詩」として有名で、もとは、病室に書き残されていたものだそうです。

「成功するために力を与えてほしいと神に求めたのに、慎み深く、従順であるようにと 弱さを授かった。
偉大なことができるように健康を求めたのに、より良きことが できるようにと病弱を与えられた。
幸せになろうとして富を求めたのに、賢明である ようにと貧困を授かった。
世の人々の賞賛を得ようとして権力を求めたのに、 神を求め続けるようにと弱さを授かった。
人生を享楽しようと、 あらゆるものを求めたのに、あらゆることを喜べるようにと生命を授かった。
求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた。
神の意にそわぬ者であるにもかかわらず、 心の中の言い表せない祈りはすべて叶えられた。
私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ。」

<終りに>

これはなかなか言えることばではありません。作者はこの心境になるまで、ベッドの上で、自分の過去の不運や不幸を次々思い出し、ずいぶん苦しみ嘆いたことでしょう。しかし、あるとき、目が開かれ、違った景色に気づきます。苦しい現実は変わらなくとも、「求めたものは1つとして…最も豊かに祝福されたのだ。」という信仰の恵みの世界に目が開かれたのです。
目に見えることは、とても大切で必要です。先週、検診結果を聞きに行ったのですが、検査結果の数値は、今の身体の状態や、将来の予測まで教えてくれ、それで色々対処ができます。様々な分野で、数値化、視覚化が進んでいます。しかしこの詩は、そんな私たちに、すぐそばに神さまが目を開き、見させてくださる恵みの世界があることを気づかせてくれます。自分や周囲の現実がうまくいってないように見えても、邪悪な勢力がはびこっているように感じられても、神さまは今日も私たちを愛し、働いておられるのですから、そのことを信じるなら、見えてくる「もう一つの信仰の世界」があるのです。本当の不幸は、そのことに気づけないことだと思います。私たちの目が開かれて、神の恵みを見つけて喜ぶ者としてくださいと祈りましょう。

メッセージ内容のダウンロード(PDF188KB)

新聖歌

開会祈祷後:358番、メッセージ後:172番

聖書交読

詩編94篇 1~15節

2022年教会行事

4月27日(水)オリーブいきいき百歳体操(10時~11時)

#54-2809

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