愛は多くの罪をおおう

コロナ・オミクロン株の感染拡大が収まらず、令和4年1月27日(木)から大阪府に発出されたまん延防止等重点措置は、3月6日(日)まで延長されました。
このため、教会での対面礼拝の中止も3月6日(日)まで延長し、オンライン礼拝として動画配信します。当ホームページに掲載のメッセージ原稿や、YouTube動画をご活用いただき、ご自宅で礼拝をおささげしましょう。
また、まん延防止等重点措置発出期間中の、日曜礼拝以外の集会もお休みします。

メッセージ

<ヨハネの福音書 13章30~38節>
メッセージ:牧師:砂山 智

開会聖句

何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。

<ペテロの手紙 第一 4章8節>

メッセージ内容

Youtube動画

 
 メッセージ動画公開:2/19 PM 9:28 


メッセージ原稿を公開しました。家庭での礼拝に用いてください。 
 
<序論>  

・今朝の聖書は十字架前日の出来事ですが、本福音書では、この13章に、イエス様による洗足、最後の晩餐の場面があり、そして、今朝、お読みした新しい戒めが与えられた後、17章まで、延々と「告別の説教」が語られます。

<本論>
1、時は夜であった

聖書には多くの謎があり、本当に分からないことだらけと言っても過言ではないと思うのですが、今朝の話に登場するイスカリオテのユダに関することも、その内の一つです。と言うか、最も代表的なものと言えるでしょう。ですから、大昔から、様々な見方と言うか、解釈が存在しているのだと思います。また、彼が「裏切者」と呼ばれていることに対してシンパシー(同情・共感・哀れみ)を感じる人たちも多いようです。日本でも、太宰治や遠藤周作などの文学作品のモチーフ(創作の動機や題材)になっているわけですが、ユダに関しては、聖書の記述自体にも辻褄が合わないように思えるところもあります。例えば、「マタイの福音書」と「使徒の働き」だけで言及されている彼の最期についてなんですが、何か微妙に食い違っているようにも読めてしまいます。ただ、今朝は、そんなユダの謎について、これ以上、述べるつもりはありません。結局、分からないから、というのが正直なところなんですが・・・。あくまでも、今朝のテキストである「ヨハネ」に沿って、皆さんとともにみことばに耳を傾けたいと願っています。
その上で、最初の30節ですが、その最後はとても印象的なことばで締め括られています。

『ユダはパン切れを受けると、すぐに出て行った。時は夜であった』(ヨハネ13:30)。

ユダはイエス様を祭司長たちに売り渡すために出て行ったのですが、ヨハネは、その時は夜であったと書き残しています。夜とは闇が支配する世界です。ヨハネは、この福音書の1章で、光と闇ということばを用いて、イエス様がこの世界に来られたことを表現しました。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった、と。しかし、今朝の場面で、ユダがパン切れを受け取って出て行ったとき、彼の心の中を支配していたのは、夜の暗闇、真っ暗な世界だったのです。

2、ユダとペテロ

ある方は、「ヨハネの福音書」のこの前後の場面も含めて、まるでイエス様がユダをそのように仕向けておられるかのような印象を受けるかもしれません。しかし、聖書が証言していることは、少し前の27節に書かれている通りです。

『ユダがパン切れを受け取ると、そのとき、サタンが彼に入った』(ヨハネ13:27a)。

この世の闇の世界を支配するサタン、悪魔がユダをそそのかして裏切らせたということです。それは、もしかすると、単に金銭的な誘惑に負けたということだったかもしれません。或は、イエス様の姿が、そのなさろうとしていることが、どうも自分が思い描いていたメシアのようではないというユダの失望のゆえのことであったかもしれません。それは本当に分からないことなんですが、ただ、一つ言えることは、彼には自分はイエス様から本当に愛されているという自覚がなかったのではないか。私は、この箇所を改めて読み直してみて、何かそのように思わされたんです。そして、それがユダとペテロとの決定的な違いではなかったかと。皆さんもよくご存じのように、この後、ペテロもイエス様を裏切ります。彼は、イエス様が捕えられた後、38節のことばにあった通りに、大祭司の庭で、側にいた人たちから、「あなたも、あの人の弟子ではないか」「あなたが園であの人と一緒にいるのを見た」と言われた時、「違う。自分は弟子ではない」と三度も否定してしまうのです。ある方が書いておられましたが、ユダの裏切りには計画性があったが、ペテロにはそれは無かったというのは、その通りかもしれません。私にもペテロと同じような経験がありますが、人間は、予期せぬと言うか、突然、思いもしないところから危機に襲われると、うろたえてしまうと言うか、咄嗟に対応できない時があります。この時のペテロも或はそうだったのかなぁ、とも思います。ただ、たとえそうであったとしても、やはりイエス様を裏切ったということにおいては、ペテロもユダも、そして、他の弟子たちも同じでした。

<結論>

けれども、何故かは分かりませんが、イエス様は、そんなペテロに、特別とも思えるおことばを残されました。それは「ヨハネ」ではなく、「ルカ」に残されています。

『シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい』(ルカ22:21~22)。

今朝の「ヨハネ」の場面で、ユダが夜の闇の中へと消えて行った後、イエス様は残った弟子たち言われました。

『わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい』(ヨハネ13:34)。

このみことばを読むと、どうしても私たちは、新しい戒め、互いに愛し合いなさい、ということばに目が行ってしまうかもしれません。しかし、本当に大切なことは、その前にあります。それは、「わたしがあなたがたを愛したように」ということばです。なぜなら、それこそが私たちの信仰の原点だからです。もし、私たちに、まず、イエス様がこの自分を愛してくださったという感動と言うか、自覚がなかったなら、新しい戒め、互いに愛し合いなさいという戒めは、それこそ絵に描いた餅、単なるお題目に終わってしまうのではないでしょうか。最後の最後で、ペテロはそのことに気づくことができました。けれども、ユダはそうではなかった。だから、ペテロは立ち直ることができたけれども、ユダは絶望の中で死んで行くしかなかったのです。
今朝の開会聖句は、立ち直った後のペテロのことばです。

『何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです』(Ⅰペテロ4:8)。

この愛とは、もちろん私たち人間の愛ではありません。神の愛、イエス様の愛のことです。ペテロは自分自身の経験から、こんなことばを書き残したのではないでしょうか。神の愛は、私たちが犯した、そして、これからも犯すであろう多くの罪をおおってくださるのです。

メッセージ内容のダウンロード(PDF84KB)

2022年教会行事

コロナ感染予防のため、お休みとなります。

#54-2804

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