世の光として

コロナ・オミクロン株の感染拡大が続いていることから、令和4年1月27日(木)から2月20日(日)までの期間、大阪府を対象地域としたまん延防止等重点措置が発出されました。
このため、2月6日(日)から2月20日(日)までの教会での対面礼拝を中止し、オンライン礼拝として動画配信します。当ホームページに掲載のメッセージ原稿や、YouTube動画をご活用いただき、ご自宅で礼拝をおささげしましょう。
また、まん延防止等重点措置発出期間中の、日曜礼拝以外の集会もお休みします。

メッセージ

<ヨハネの福音書 8章12~20節>
メッセージ:信徒:K

開会聖句

「人がひとりでいるのはよくない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう。」

<創世記 2章18節後半>

メッセージ内容

Youtube動画

今週の礼拝メッセージ動画配信はありません。


 

メッセージ原稿を公開しました。 

<はじめに>  
・8章は、イエスさまと姦淫の罪で捕らえられた女性の有名な場面です。彼女の罪に対する刑罰は石打ちでした。イエスさまは彼女を冷ややかに見つめる律法学者とパリサイ人に、「あなた方の中の罪のない者が、まず彼女に石を投げなさい。」と言われ、ご自身は身をかがめて地面に何かを書いておられたところ、年長者から一人一人去っていったという話です。イエスさまの生涯を描いた映画でこの場面を見たことがありますが、イエスさまらしさがよく伝わってくるエピソードです。しかし、7章の最後の節から8章11節が括弧に入っています。ここは最初の聖書の写本にはなく、後に挿入された可能性が高いということだそうです。そうすると、今日の箇所は7章の仮庵の祭りの続きで、人々はまだ祭りの熱気の中にいることになります。

<本論>
Ⅰ.イエスさまは世の光です

少し前回を振り返りましょう。仮庵の祭りでは2つのことが行われました。ユダヤ人たちが先祖の40年の荒野生活を思い起こすこと、それと次の種蒔きに備えた雨乞いの儀式です。その祭りの最終日に、イエスさまは「わたしのもとに来て、いのちの水を飲みなさい」と招かれました。今日は「わたしは世の光」だと言われます。「水」の次は「光」なのですが、これは思いつきで言われたことばではありません。「光」も、荒野の40年と非常に関係が深いのです。

彼らが絶えず思い起こしていた先祖の荒野での生活。その様子は旧約聖書に書かれています。その1節を読んでみましょう。

(出エジプト記13:21~22)「主は、昼は、途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすため火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。昼はこの雲の柱が、夜はこの火の柱が、民の前から離れることはなかった。」

エジプトを脱出し、紅海を渡り、追っ手を振りきった彼らが導かれたのは荒野でした。奴隷という身分でしたが、世界最高の文明の恩恵も受けていた彼らにとっては、ずいぶん不自由で、過酷な生活だったでしょう。着の身着のままに急いで逃げて来た民。不十分な食料に文句たらたらの民。まとまりがなく、未知の危険な荒野を旅することになった民。その数、女、子供含めて200~300万(吹田、茨木、豊中の人口107万)。

この大所帯の旅路を守り導いたのが昼は雲の柱、夜は火の柱です。この祭りの初日には神殿の庭に置かれていた「献金箱」(20節)の近くに、4基の金の大燭台が立てられ、毎晩、祭司が梯子に上って火を灯しました。人々はその煌々とした光の下で、楽器を奏で、踊り明かしたとも言われています。彼らは、先祖の旅を守った火の柱を思い起こし喜んだのでしょう。イエスさまはこの光のもとで、

12節「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことはなく、永遠のいのちを持つのです。」

と言われたのです。
その大きな光は神殿だけでなく、エルサレムの町の隅々まで照らしました。エルサレムは山の上にあるので、その光は遠くからでもよく見えたそうです。私は時々夜歩いていて、カーテンを引かずに明明と照明をつけている部屋を見ることがあります。外が暗くて中が明るいと外から丸見えで、とても気になります。戦争のドラマでは、空襲を警戒して電球の傘を布で覆って光が漏れないようにしていますね。光は敵にその存在を教えることになります。大きな煌々とした火の柱って無防備ではなかったのでしょうか。しかし、それは神の臨在(ともにおられる)のしるしでもあったのです。世界最強と言われていたエジプトに勝った神がイスラエルについている、紅海でエジプト軍を壊滅させた神が彼らの味方である。それで誰も近づこうとしませんでした。祭りの度に彼らが思い起こしたのは、先祖の苦労だけでなく、何よりもこの神の臨在でした。詩篇124篇の都上りの歌はこう記しています。

「もしも、主が私たちの味方でなかったなら、人々が敵対してきたとき、そのとき、彼らは私たちを生きたまま丸呑みにしていたであろう。」

しかし、波に丸呑みにされたのは、エジプトの軍隊とパロでした。

パウロはローマ8:31で、

「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」と言っています。イスラエルの民はそれはそれは反抗的な民でした。しかし、神の臨在は絶えることなく、彼らを守ったのです。私たちも同じです。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことなく、永遠のいのちを持つのです。」

私たちはインクライスト、神の光の中、神の臨在の中に生きているのです。たとえ自分を見失い、神がわからなくなるときも、調子がよいときも、感情に振り回されることなく、イエスさまの臨在を覚えましょう。

Ⅱ.あなたがたは世の光です

イエスさまの「世の光」という発言はパリサイ人を刺激しました。彼らは「あなた1人の証言だから信じることは出来ない」と応答しますが、14節以降のことばにはもっと反発しました。

「…わたしは自分がどこから来たのか、またどこへ行くのかを知っているのですから。…わたしは1人ではなく、わたしとわたしを遣わした父がさばくからです。…わたしを遣わした父が、わたしについて証ししておられます。」

これらの発言は、イエスさまが父と1つである、神性を持つものであることを意味しました。人々はメシアを待望していましたが、それが神ご自身であるとは考えてもいませんでした。私たちは当たり前のように、イエスさまが100%神であり、100%人であることを信じていますが、この教えが確立するまで、200年以上もの間、多くの論争がありました。これを否定したり、割り引いたりする教えは異端として退けられました。
さて「世の光」ということばは新約聖書にあと3回出てきます。

ヨハネ9:5「わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」
マタイ5:14「あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。」
ピリピ2:16「いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。」

イエスさまはご自分が去っていくことを、何度も予告されています。そして去った後のことを、弟子たちに託されました。もちろん、助け主「聖霊」を遣わすという約束つきです。イエスさまが地上にいる間は、イエスさまが世の光です。そして、天に戻られた今は、信じた者たちの共同体、教会が「世の光」として輝くようにと召されているのです。では、どのように輝くのでしょうか。「世の光でありなさい」とか「輝きなさい」と言われると、何か私たちがすごく立派な人格者でなければならないようなしんどさを感じませんか。

前回も母の付き添いで感じた私の体験をお話しました。「神のなさることは時にかなって美しいこと」「肉体の死の結末にはかなさを感じたこと」、そしてもう1つ私が強く思ったことは、「人がひとりでいるのはよくない」ということでした。多くの人に助けられていることを感じました。予想外の長期戦になり、私は自分の自己満足のために、周りを振り回しているのではないだろうか、もうあきらめようかとか何度も思いました。しかし、その度に色々な助けが送られ、完走することができました。例えば、夜中の介護に疲れ果てた私に差し出された、夜明けの一服の熱いお茶。イエスさまが弟子たちに

「この小さい者たちの1人に1杯の冷たい水を飲ませる人は、決して報いを失うことがありません。」(マタイ10:42)

と言われたのを思い出しました。そこは、「わたしの弟子だからというので」と、条件つきですが、旅が多かったイエスさまたちも、疲れたときに差し出される、そういうホッとする経験に励まされたのでしょう。人の助けの上に、自分が生きることは成り立っているのだと思いました。
今日の開会聖句は

創世記2:18「人がひとりでいるのはよくない。わたしは人のために助け手を造ろう」

です。人は人に助けられ、助けたりしてともに生きていくことが、創造のときからの神の計画であったということです。そして、その生き方は弱さと愚かさをもつ私たちが、神をあがめる共同体の中で、絶えず実現しようとしているものだと思います。それが、教会が世にあらわす「世の光として」の1つのありかたではないでしょうか。

<終りに>

そのために大切なことは、自分がひとりでは生きていけない弱い存在であること、傷つきやすい傷つけやすい愚かな存在であることを知っていくことです。助け主である聖霊の光に照らされ、心の目が開かれると、自分がどれほど罪深いかと同時に、神に赦され愛されている自分を知っていきます。そのとき、お互いの間に寛容な心が生まれ、親切な行いが生まれ、時には忍耐が生まれるのでしょう。これがこの世では味わえない教会のありかたです。私たちは「世の光として」、これからもその生き方を身につけ、この世界で広げていきましょう。

メッセージ内容のダウンロード(PDF195KB)

2022年教会行事

お休みとなります。

#54-2802

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