見えるようになるために

コロナ・オミクロン株の感染拡大が続いていることから、令和4年1月27日(木)から2月20日(日)までの期間、大阪府を対象地域としたまん延防止等重点措置が発出されました。
このため、2月6日(日)から2月20日(日)までの教会での対面礼拝を中止し、オンライン礼拝として動画配信します。当ホームページに掲載のメッセージ原稿や、YouTube動画をご活用いただき、ご自宅で礼拝をおささげしましょう。
また、まん延防止等重点措置発出期間中の、日曜礼拝以外の集会もお休みします。

メッセージ

<ヨハネの福音書 6章16~29節>
メッセージ:牧師:砂山 智

開会聖句

そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」

<ヨハネの福音書 9章39節>

メッセージ内容

Youtube動画

 
動画公開をいましばらくお待ちください。礼拝後に公開を予定しています。


メッセージ原稿を公開しました。家庭での礼拝に用いてください。 
 
<序論>  

・福音書にはイエス様がなさった多くの奇跡が記されています。ただ、生まれたときから病気(障害)のある人が癒されるという奇跡はこの箇所だけです。弟子たちはイエス様が通りすがりに盲目の人をご覧になっているのを見て、尋ねます。

「先生、この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか」(ヨハネ9:2b)。

弟子たちの関心事は、彼が生まれたときから盲目であった原因はどこにあったかということでしたが、それは、彼への同情心とか誠実な関心によるものではなく、単に興味本位と言うか、自らの好奇心を満たすためであったと思います。

<本論>
1、この人に神のわざが現れるため

この人は、8節を見ると、物乞いをしていたと記されています。本当に貧しい暮らしぶりだったでしょう。当時のユダヤでは、そのような不幸は、彼自身、或は、両親が犯した罪が原因だと考えられていました。今の日本にもそのような考え方があります。「因果応報=前世における行為の結果として現世における幸不幸があり、現世における行為の結果として来世における幸不幸が生じる(大辞林第三版)」。イエス様の時代のユダヤにも、ギリシア哲学から影響を受けたと思われる奇妙な説と言うか、おかしな考え方があったようです。それは、例えば、すべての人間の魂は、この世界が創造される以前から、既に「エデンの園」に存在しており、それぞれが肉体に入るのを待っていたのだけれども、その魂には善いものと悪いものとがあった、という説です。そんなこと、旧約聖書には一切書かれていないのですが・・・。ですから、弟子たちは、彼が、生まれたときから目の見えない人であったにも拘らず、この人自身が罪を犯したからですかというような、おかしな質問したんですね。
また、「両親ですか」という質問の背景には、旧約聖書の有名なことばがあったと思われます。それは「出エジプト記」20章の「モーセの十戒」の一節です。

『あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである』(出エジプト20:5b~6)。

けれども、イエス様は弟子たちからの質問に対して次のように答えられました。

『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです』(ヨハネ9:3b)。

イエス様は、この人が盲目に生まれついた原因は罪にあるのではない、とはっきりと否定されたのです。それは言い換えれば、わたしは、お前たちが興味本位で知りたがっているような旧約律法の解釈や一般原則みたいなことを語るつもりはない。そんなことではなく、わたしは、この人自身のこと、この人のこれからのこと、未来について語るのだ、ということではないでしょうか。
今朝の箇所の少し前、8章の冒頭に、姦淫の現場で捕えられた女性の話が記されています。律法学者とパリサイ人は、その女性をイエス様の前に連れて来て、

「先生、この女は姦淫の現場で捕えられました。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか」(同8:4b~5)

と尋ねます。彼らはイエス様を罠にかけようとしたのです。ところが、そんな彼らに向かってイエス様は、

「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい」(同8:7b)

と答えられました。すると、年長者たちから始めて皆が去っていき、誰もいなくなった。そして、その女性と二人きりになった時、イエス様は彼女に言われたんです。

「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません」(同8:11b)。

モーセの律法の通りに、つまり正論に従うならば、このような女は石打ちにするのが当然なのです。しかし、イエス様は「わたしもあなたにさばきを下さない」と宣言し、これからのあなたの人生を大切に生きなさい、と彼女を送り出されたのです。
藤木正三師の本に次のような一文がありました。それは「正論と愛」と題された断想です。

「わかっていて止められないのです。浅ましいと思いながら執着するのです。どうでもよいことに意地をはるのです。この人間の愚かさ、弱さ。それに甘えてはなりません。しかし、道理の通った正論でこの弱さをさばかれてはたまらないのも事実です。正論とは、道理は通っているが人間に届いていないせっかちさです。道理は通っていないが人間に届いているゆるやかさ、それを愛と言います。道理が通っていないという理由でこれを斥けてはなりません。人間の弱さに対する洞察において、正論は遠く愛に及ばないのです」。i
i 「福音はとどいていますか」藤木正三、工藤信夫著 ヨルダン社 P262~263

この世は正論を戦わせる世界です。しかし、イエス様のさばきは、いつも正論ではなく、愛(アガペー)に基づくものでした。

2、信じることと行うこと

さて、今朝の話に戻りますが、イエス様は地面に唾をして泥を作り、その泥を目の見えない人の目に塗って言われました。「行って、シロアムの池で洗いなさい」。エルサレムという町は高地にありますので、飲み水を確保するための貯水池がいくつかあり、この「シロアムの池」もそのうちの一つでした。

『そこで、彼は行って洗った。すると、見えるようになり、帰って行った』(ヨハネ9:7b)。

ヨハネの説明は実に簡潔です。しかし、この目に見えない人にとって、イエス様が言われたことは決して容易いことではなかったでしょう。何しろ今から2000年前の話ですから、バリアフリーも何もあったもんじゃない。彼のような目の見えない人にとって、それは本当に大変なことだったと思います。けれども、彼はイエス様のことばを聞き、すぐにそれを行ったのです。
ここにも大切なことが示されています。私たちが救われたのは、もちろん神からの一方的な恵みによるものです。「エペソ人への手紙」に

『この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です』(エペソ2:8)

とある通りです。ただ、イエス様はあの「山上の垂訓」の最後で言われました。

「ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます」(マタイ7:24)。

先程の「エペソ人への手紙」の続きにも次のように書かれています。

『実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました』(エペソ2:10)。

「信じる」ことと「行う」ことは、決して相反することではありませんし、対立することでもありません。そこに順番はありますが、一体のものなのです。

<結論>

さて、今朝の奇跡の後、目が見えるようになった人はパリサイ人から厳しい質問攻めに遭います。パリサイ人たちは、ああでもない、こうでもないと、どうしても自分たちの正しさを示したかったみたいです。そんな彼らに対して、この人の答えは実にシンプルです。彼は自分が体験したことだけを証言しています。

『彼は答えた。「あの方が罪人かどうか私は知りませんが、一つのことは知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」』(ヨハネ9:25)。

パリサイ人たちは聖書を隅から隅まで調べ上げ、よく知っていました。しかし、彼らは、最も大切で肝心な一つのことを知らなかったのです。否、知らなかったと言うより、体験していなかったと言った方がよいでしょう。彼らが体験していなかった一つのこととは、真の救い主であるイエス様と出会い、新しく生まれるということです。彼らの肉体の目は開いていましたが、心の目、霊的な目は閉ざされたままだったのです。
このやり取りの後、目が見えるようになった人は外に追い出された、とヨハネは記しています。つまり、彼はユダヤ人のコミュニティーから追放されてしまったのです。しかし、イエス様はそんな彼をお見捨てにはなりませんでした。

『イエスは、ユダヤ人たちが彼を外に追い出したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」』(同9:35)。

ご自分のことばに従ったがゆえに、この世から追い出されてしまった者を、イエス様は必ず見つけ出し、そして言われるのです。「あなたは人の子を信じますか」と。
最後に今朝の開会聖句です。

『そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」』(同9:39)。

生まれたときから目の見えない人が見えるようになるというのは、どれほどの喜び、感動でしょうか。私たちには想像もつかないことですが、イエス様が来てくださったのは、そのような、ものすごい、想像もつかないような喜び、感動、盲目であった者の目が見えるようになるためでした。その驚くべき恵みを覚えつつ、今週も歩みましょう。

メッセージ内容のダウンロード(PDF102KB)

新聖歌

開会祈祷後:38番、メッセージ後:358番

聖書交読

詩編90篇 1~12節

2022年教会行事

コロナ感染予防のため、お休みとなります。

#54-2801

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