対面礼拝休止期間は、当ホームページに掲載のメッセージ原稿やYoutube動画を活用いただき、それぞれのご自宅で礼拝をお捧げください。
メッセージ
<イザヤ書 66章7~14節>
メッセージ:牧師:砂山 智
開会聖句
エルサレムとともに喜べ。すべて彼女を愛する者よ、彼女とともに楽しめ。すべて彼女のために悲しむ者よ、彼女とともに喜び喜べ。
<イザヤ書 66章10節>
メッセージ内容
Youtube動画
メッセージ動画公開:8/14 PM 10:40
メッセージ原稿を公開しました。家庭での礼拝に用いてください。
<序論>
・「イザヤ書」後半からの四回目、今日が最終回です。以前にもお話しましたが、「イザヤ書」は66章まであって、旧・新約聖書合わせて66巻あるのと同じなので、「小聖書」と呼ばれていますが、最後の部分は預言者イザヤの祈りと、その祈りに対する神からの応答で終わっています。63章の14節後半から64章の最後まで、イザヤは民を代表してとりなしの祈りをささげていますが、その最後の部分だけをご覧ください。
『しかし、今、主よ、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの御手のわざです。主よ、どうか激しく怒らないでください。いつまでも、咎を覚えていないでください。どうか今、私たちがみな、あなたの民であることに目を留めてください。あなたの聖なる町々は荒野となっています。シオンは荒野となり、エルサレムは荒れ果てています。私たちの聖なる美しい宮、私たちの先祖があなたをほめたたえたその場所は火で焼かれ、私たちが宝とした所は、すべて廃墟となりました。主よ。これでも、あなたはじっとこらえ、黙って、私たちをこんなに苦しめるのですか』(イザヤ64:8~12)。
1、わたしを尋ねなかった者たちに
心の底から絞り出すかのような祈りですが、そんな祈りに対して、神は次のように答えられます。
『「わたしを尋ねなかった者たちに、わたしは尋ね求められ、わたしを探さなかった者たちに、わたしは見出された。わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、『わたしはここだ、わたしはここだ』と言った。わたしは終日、頑なな民に手を差し伸べた。自分の考えのまま、良くない道を歩む者たちに』(イザヤ65:1,2)。
この1節の方は、異邦人(外国人)に対して、そして2節から7節までは、イスラエルの民に対しての神からの呼びかけなんですが、神はまず、ご自分の民イスラエルにではなく、異邦人に対して呼びかけておられるということに驚かされます。それは、先週のメッセージでもお話ししたように、神は、異邦人であっても宦官であっても、その民族や出自、社会的な身分などとは関係なく、ただ、ご自分を真剣に尋ね求める者、みことばに聞き従おうとする者に対して応えてくださる方であるということが、ここでも強調されているように思えます。さらに、その後の8節以降では、憐れみ深いご自身の姿と、それとは対照的に、厳しいさばき主でもあるご自身の姿が語られます。そして、17節以降では、少し飛躍して、あの「ヨハネの黙示録」ともリンクするような新天新地の光景が預言されます。
65章最後の25節、『狼と子羊はともに草をはみ・・・』
というみことばは、同じ「イザヤ書」11章のメシア預言にもあった世界。メシアによって最終的にもたらされるであろう絶対的な平和の世界を思い起こさせます。先日、いつも見ているテレビ番組で、出演者が子どもの羊を抱いて、「かわいいなぁ、かわいいなぁ」と言った、そのすぐ後で、「さあ!美味しそうなラム肉のステーキが出てまいりました!」と、美味しそうに子羊のステーキを頬張る姿が映っていたんですが、見ていて何かとても複雑な思いにさせられました。その場にいたら、自分もきっと同じように食べていたと思いますが、聖書の語る、来るべき世界、新天新地では、そんなことはないんですね。狼も子羊も、すべての被造物が平和の内に憩い、弱肉強食ではない世界、神によって創造された本来の姿にこの世界は回復させられるのです。
2、産みの苦しみと同時に
そして、今朝の66章では、エルサレムの崩壊とその回復、メシアの来臨による新しい時代、救いの時代の到来が告げられます。
7~9節では、その新しい救いの時代の到来を表現するために、出産、子どもを産むことが比喩として使われています。「創世記」3章16節前半を見ると、出産は、人間の罪の結果、苦しみを伴うものとなったことが明らかにされています。
『女にはこう言われた。「わたしは、あなたの苦しみとうめきを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む』(創世3:16a)。
しかし、今日の「イザヤ書」では、その出産が、苦しみのない救い、喜びの出来事として語られます。
66章8節後半の、『地は一日の苦しみで産み出されるだろうか。国は一瞬にして生まれるだろうか。ところがシオンは、産みの苦しみと同時に子たちを産む』(イザヤ66:8b)
というみことばは、エルサレムが一瞬にして捕囚の民に返されることを表しています。しかもそれは、自分たちの努力によってではなく、外国人の王キュロスによって奇跡的になされ、全く陣痛もなく起こる。つまり、戦争やその他の破滅的な出来事なく行われるということです。しかし、そのように帰還することができた後の民の歩みはどうだったでしょうか?苦しみがないということではなかったのです。前回も申し上げましたように、彼らは故国に帰ってはきたけれど、貧しさに苦しみ、先住の民族であるサマリア人からは邪魔をされ、さんざん苦労の末、やっと完成した神殿は、以前のものと比べると見る影もないほどにお粗末に見えるものだったのです。まぁ、「昔はよかった」と、そのように見えたのかもしれませんが・・・。そのような民の嘆きと失望に対して、神は反論されます。
『わたしが胎を開きながら、産ませないだろうか。――主は言われる――わたしは産ませる者なのに、胎を閉ざすだろうか。――あなたの神は仰せられる。」』(同66:9)。
これは、目の前の現実に失望し、嘆き悲しむ民に向かって、待ち望むことの大切さを教えることばではないかと思います。たとえ、私たち人間の目にはすべての歩みが途方もなく遅いように映ったとしても、神はご自身が始められた業を必ず成し遂げてくださる。決して途中で投げ出すようなことはなさらない、ということです。それゆえ、神は、そんな民に向かって、今日の開会聖句の10節にあるように、エルサレムとともに喜べ、と言われるのです。
<結論>
『エルサレムとともに喜べ。すべて彼女を愛する者よ、彼女とともに楽しめ。すべて彼女のために悲しむ者よ、彼女とともに喜び喜べ』(イザヤ66:10)。
先程も出産の比喩がありましたが、この後の11~13節では、産まれたばかりの赤ちゃんがお母さんの懐で安心しておっぱいを吸い、喜びを得るように、あなたがも神の懐に抱かれて喜びを得、エルサレムで慰められるだろう、と預言されます。
そして、最後の14節の前半。
『あなたがたがこれを見るとき、その心は喜び、骨は若草のように生き返る』(同66:14a)。
以前、お話しした「エゼキエル書」37章にあった、エゼキエルが見たという幻。平地にあった非常に多くの干からびた骨がガラガラと音がしてつながり、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がおおい、エゼキエルが神に命じられた通りに預言するとそれらの骨が生き返ったという場面を思い出しました。そして、後半。
『主の手はそのしもべたちに知られる。その憤りは敵たちに』(同66:14b)。
この「しもべ」とは、神に従うすべての民を指しています。確かに、エルサレムはかつて、ユダの民、イスラエルの民だけが神の民として礼拝をささげる場所でした。けれども、先週もお話ししたように、イエス様はサマリアの女に向かって言われたんです。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来る。まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来る。今がその時だ、と。今は、残念ながら、コロナのために、礼拝する場所はそれぞれの家、ご家庭かもしれません。しかし、大切なことは、そこがどんな場所であったとしても、私たちが主の御前に出てみことばに聴き、その救いを信じ、喜びに満たされる時、その場所こそが私たちにとって真のエルサレムになる、ということではないでしょうか。
今朝も、エルサレムとともに喜びましょう。
2021年教会行事
週日の集会は、しばらくの間、お休みとさせていただきます。
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