メッセージ
<ヨハネの福音書 4章31~38節>
メッセージ:信徒:K
開会聖句
神にはえこひいきがないからです。
<ローマ人への手紙 2章11節前半>
メッセージ内容
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<はじめに>
・4章は、イエスさまとサマリヤの女性の会話で始まります。弟子たちが疲れたイエスさまを井戸の傍らに残し、ランチを調達に出かけていた間のことです。正午という暑い時間帯に、人目を避けるように水を汲みにきた女性の渇いた心を察したイエスさまは、「わたしに水を飲ませてください」と女性に声をかけ、話しながら、心の渇きを満たす「いのちの水」について説いていかれました。きっとエネルギーを消耗されたことでしょう。そこに、弟子たちが戻ってきたのですが、彼らには、イエスさまがさっきよりも元気そうに見えました。そして、弟子たちの知らない食べ物があると言われたのです。イエスさまの秘密の食べ物。それは何なのでしょうか。
Ⅰ.イエスの食べ物は父(神)のみこころを行なうこと
戻ってきた弟子たちが驚いたことは2つあります。1つはイエスさまが女性と話していたことです。成人男性が見知らぬ女性と話すことは、当時の非常識でした。でも弟子たちはそのことについて触れず、ランチを勧めます。 2つめは、疲れていた様子のイエスさまが、すっかり元気になっていることでした。とても満ち足りた喜びの表情をしておられたのだろうと思います。私たちにも、よく似た経験があるのではないでしょうか。疲れていて、空腹のはずなのに、なぜか心が満たされて喜んだという経験。
イエスさまはいぶかる弟子たちに、
32節「わたしには、あなたがたが知らない食べ物があります。」
と言われました。 弟子たちは誰かが差し入れをしたのかしらと思ったようですが、
34節「わたしの食べ物とは、わたしの遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです。」
と言われました。 なるほど、
「人はパンだけでなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる。」(マタイ4:4)
と言われたこともありますね。荒野でサタンの誘惑に会ったときです。あのときは、イエスさまは40日間の断食の後で、とても空腹でした。それで、サタンが、あなたが神の子なら、この石ころをパンに変えたらと誘ったのですが、その時イエスさまがそう返答されたのです。 肉体を持つ私たちは、パンのような食事が必要です。成長や生命維持のために。心の楽しみのために。さらに他の動物と違って、人間は神の息を吹き込まれた(創世記2章)という霊的ないのちを持つものですから、そのいのちを養うために、神のことばも必要とします。それによって、本当の自分らしく、生き生きとさせられる存在なのです。
疲れているはずのイエスさまが、生き生きとしておられるのは、「遣わされた方のみこころ」、つまり、「父(神)のみこころ」を行なったからだと説明されたのです。ではそのみこころとは何なのでしょうか。一人の人間の救いです。ユダヤ社会では数に入らない女性の救いでもあります。また、社会で排除されるような人の救いです。さらにもう一つ、もっと大きな父のみこころ、神さまの計画があるのです。
Ⅱ.神のみこころは、民族の壁を超えて福音が広がること
「私の食べ物とは」から始まって、イエスさまの返事は38節まで続きます。
35節「あなたがたは、『まだ4ヶ月あって、それから刈り入れだ』と言ってはいませんか。しかし、あなたがたに言います。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。」
イエスさまの目には、十分に色づき、刈り入れを待つ畑が見えているのですね。
36~38節「すでに刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに至る実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。…わたしはあなたがたを、自分たちが労苦したのでないものを刈り入れるために遣わしました。ほかの者たちが労苦し、あなたがたがその労苦の実にあずかっているのです。」
は、収穫の働きというのは、一人ではなく、種を蒔く者と刈りとる者の両者の協同作業だと言われています。
サマリヤの女性の話は、実は、多くのサマリヤ人が救われるというサマリヤ宣教の一部なのです。今日の箇所の前後では、彼女の証言を聞いて多くのサマリヤ人が集まって来ています。以前なら、誰も耳を傾けなかった女性の話を聞いて、多くのサマリヤ人がイエスさまを信じたのです。さらに、彼らはイエスさまに滞在を求め、自分自身でイエスさまをメシアと確信したと言うのです。エルサレムの人たちのイエスさまへの態度や反応とは大違いです。サマリヤ人は、そもそもユダヤの血が混じった親戚なのですが、この混血をユダヤ人は非常に嫌い、軽蔑しました。 どれほど? 「よきサマリヤ人」(ルカ10章)という有名なたとえがあります。
一人の律法の専門家が、「律法の教えとは神を愛することと、隣人を愛すること。」とイエスさまに答えたところ、「あなたは正しい。それを実行しなさい。」と言われました。彼は自信があったのでしょう。自分の正しさを示すために「私の隣人とは誰ですか」とイエスさまに問い返します。イエスさまは、たとえで答えられました。 一人の旅人が強盗に襲われ、大怪我をします。旅人を介抱したのは、ユダヤ人の祭司でも、レビ人でもなく、最後に通りすがったサマリヤ人でした。イエスさまは律法の専門家に、「誰がその怪我人の隣人になったか」と尋ねます。自分中心に「隣人とは誰のことか」と問う彼に、「助けを必要とする人のところに行く人がその人の隣人なのですよ。」と教えられたのです。 このたとえにはユダヤ人への痛烈な皮肉が込められています。彼らがひどく軽蔑しているサマリヤ人を、あえて隣人として登場させました。聴衆はイエスさまのそのことばに、思わず耳を疑ったでしょう。質問した本人は、「サマリヤ人」と口にも出したくなかったようで、「その人に憐れみをかけた人です」と言い換えました。
今日の開会聖句は
ローマ2:11「神にはえこひいきがないからです。」
ローマの教会にもユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの間にトラブルがありました。それで、パウロは両者に対して、神はユダヤ人もギリシャ人もえこひいきをしない方だと教えたのです。同じように、このサマリヤ宣教の話は、人種民族を越えて、神の恵みをこの世界に知らせるという神のみこころ、神の壮大な計画が実行されていく話なのです。ユダヤ人の前で、依然として肩身を狭くさせられていたサマリヤ人や異邦人は、この話しによって、人をえこひいきしない神をあらためて体験し、自信をつけ、クリスチャンとして成長させられていったのではないでしょうか。
神はえこひいきをされませんが、私たちはどうでしょう。していないつもりでも、結果的にしていることもあります。とてもレベルの高いことですが、神はそれを願われます。「できないと落第!」ではなく、「心がけなさい!」と。えこひいきしない神さまによって、私たち一人一人は、人がどう評価しようと、ありのままを受入れられ、神の子とされ、恵みによって生きる者とされました。そして、そう信じることは、当然、人をえこひいきしない神に倣う生き方につながっていくのです。最後に、このことを先の収穫の記事につなげて終りたいと思います。
<むすび>
どの福音書にも弟子派遣の記事があります。どこに行きなさいとか、何を持っていきなさいとかが述べられていますが、ここはヨハネ版弟子派遣と言えます。ここでイエスさまは、宣教の働きは、蒔く者と刈る者が共に喜ぶための協同作業だと強調されました。そして弟子たちに、すでに他の誰かが労苦し、あなたたちはその労苦の実にあずかるのだと教えられたのです。 神さまは、すでに他の人を通して、この世界で働いてくださっているということですね。それなら、私たちはそれを見落としたり、踏みつぶしたりしないようにしたいと思います。私たちは日常生活で、「あんなこと言って」とか、「あんなことして」とか思ってしまうことがありませんか。もしそんな場合、早々と無視や拒絶することをしないで、一旦向き合い、耳を傾けるという生き方を心がけるなら、神と人との協同作業に、もっと参加していくことができるように思います。
新聖歌
開会祈祷後:209番、メッセージ後:233番
聖書交読
詩編 68篇 1~10節
2021年教会行事
大阪でのコロナ感染の急拡大を受け、週日の集会は、しばらくの間、お休みとさせていただきます。
#53-2761
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