人間の責任 [家庭礼拝対応版]

「緊急事態宣言」が解除されたことから、5月31日(日)から、感染拡大予防に配慮したうえで礼拝を再開しています。
高齢の教会員、教会での礼拝に参加することが困難な教会員のために、Youtubeによる動画配信を行っています。
本ページ内容は家庭礼拝に対応しています。

メッセージ

<イザヤ書 39章 1~8節>
牧師:砂山 智

開会聖句

ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。

<マタイの福音書 6章34節>

メッセージ内容

Youtube動画

メッセージ原稿は、礼拝前ですが、家庭礼拝用として事前公開します。

<序論>  

・「イザヤ書」からの五回目。今年度はここまでで、後半の40章以降は来年になると思います。「イザヤ書」は、ずっと長い間、アモツの子イザヤ一人によって書かれたとされてきましたが、近年になって、実はそうではないんじゃないかと考える人たちが現れるようになりました(統一性・著者の問題)。それは、前半(39章まで)と後半(40章以降)とで預言されている内容(年代)が大きく異なるからです。今まで見てきました39章までの預言は、そのほとんどが紀元前8世紀から7世紀前半までのことなんですが、40~55章までの預言は、紀元前538年のペルシアのキュロス王によるバビロン捕囚からの解放を、そして56~66章は、その後のシオン(神の民)の回復と帰還した人々の礼拝を主題としています。ですので、ある学者たちは、これが8世紀に活動したイザヤに書けるはずがないと考え、第二イザヤ、第三イザヤといった、(第一)イザヤとは別の著者を想定するようになったのです。また、今日の39章は、年代的に見て少し辻褄が合わないとも言えるので、これは後の時代になって、「イザヤ書」を編集した人が加筆したものであると考える学者もいるようです。ただ、いずれにしましても、それらの問題については決着がついていないと言うか、どちらの説も定説とはなっていませんので、ご紹介だけにとどめて、これ以上お話しすることは控えたいと思います。今日は「人間の責任」と題して皆さんと一緒にみことばから見てゆきたいと願っています。

<本論>
1、バビロンの王からの使者

38章もそうでしたが、今日のテキストの最初にも『そのころ』と書かれています。今もお話ししましたように、この具体的な年代については議論があります。ただ、1節を素直に読めば、これは先々週お話しした38章の出来事の少し後に起こったことだということになるでしょう。なぜなら、1節の最後に、

『彼(ヒゼキヤ)は病気だったが元気になった、と聞いたからである』

と書いてあるからですね。
このバビロンのメロダク・バルアダンという王は、バビロン第10王朝の王で、アッシリアにとっては「目の上のたん瘤」とも言える人物でした。この時代のアッシリアはオリエント世界で最強・最大の帝国でしたが、そんなアッシリアにも頭を悩ませる問題があり、それがバビロン問題だったのです。当時のバビロンは反アッシリア同盟のリーダー的存在であり、アッシリアの内政が乱れ、国力が衰退した時期には、必ずと言っていいほど反乱を起こしたんです。このメロダクもそうでした。彼がバビロン王に即位したのは紀元前721年ですが、10年ほど経った紀元前710年に、アッシリアのサルゴンが攻めてきます。自分に反抗的なメロダクを倒すためですね。それでメロダクはあえなく敗れて亡命するんですが、しばらくしてサルゴンが亡くなると、「これ幸い」と亡命先からバビロンに戻り、王位に返り咲きます。けれども、それからしばらくして、今度は、サルゴンの後を継いだ息子のセンナケリブが攻めてくるんです。メロダクはまたもや王位を追われ、今度は再起すること叶わず、亡命先で亡くなってしまうのです(紀元前702年)。今日の場面でメロダクは、反アッシリア同盟の盟友とも言えるヒゼキヤに対して病気回復のお祝いの使者を遣わします。ただ、政治や外交の世界というのは、いつの時代も、一筋縄や二筋縄でいくような世界ではありません。まして、先程もお話ししたように、強国アッシリアを相手に渡り合うようなメロダクのような人物が、ただの善意だけで使者を送ってくるということは考えられません。恐らく、「お前、これはいい機会だから、ユダの国の内情も探ってこい」と使者に命じていたのではないかと思われます。

2、ヒゼキヤの油断

そんな使者を迎えた時のヒゼキヤの様子が2節に記されています。

『ヒゼキヤは彼らを喜び、宝庫、銀、金、香料、高価な油、一切の武器庫、彼の宝物倉にあるすべての物を彼らに見せた。ヒゼキヤがその家の中、および国中で、彼らに見せなかった物は一つもなかった』(イザヤ39:2)。

あの名君と言われたヒゼキヤ王も、この時ばかりは警戒心を解いてしまったようです。まぁ、それも無理ないと思うんですが、何しろ、死に至る病から神の恵みによって回復することができたんですから・・・。
昔、「刑事コロンボ」という人気ドラマがありました。ピーター・フォーク主演で。あのドラマで、コロンボ刑事が使ういつもの手があったんですが、覚えておられるでしょうか?それは、一通りの尋問のようなことが終わった後、一旦、帰ると見せかけて、すぐに何気ない雰囲気で戻ってきて、ズバッと核心を突くような質問を投げかけるという。それまでは、心のガードを固くして、決して本心を明かさないぞ、と警戒していた犯人も、一瞬、心にスキができてしまって、ポロっと本音を漏らしてしまうというか、不用意なことを言ってしまうんですね。それが犯人逮捕につながる重要な証拠となってしまうわけですが、この時のヒゼキヤにも、もしかしたら、そんな心のスキ、油断があったのではないでしょうか。

3、イザヤの預言

そんなヒゼキヤに向かって、イザヤは神のさばきが下ると告げます。しかし、それはすぐにではありませんでした。

『イザヤはヒゼキヤに言った。「万軍の主のことばを聞きなさい。見よ。あなたの家にある物、あなたの父祖たちが今日まで蓄えてきた物がすべて、バビロンへ運び去られる日々が来る。何一つ残されることはない―主は言われる―。また、あなたが生む、あなた自身の息子たちの中には、捕らえられてバビロンの王の宮殿で宦官となる者がいる。」』(イザヤ39:5~7)。

この預言は、この時から100年以上後に現実のものとなります。紀元前6世紀前半に起こった「バビロン捕囚」ですね。ヒゼキヤが犯した罪は、現代風に言えば「情報漏洩の罪」と言えると思います。自分の国の機密情報を他国に漏らしてしまうという。しかし、この失敗には、それ以上の意味がありました。「イザヤ書」からの第一回目の説教(イザヤの召命)の際にお話ししたことですが、イザヤが召された時、セラフィムが「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満ちる」と呼び交わしたと記されていました。「イザヤ書」に特徴的なことの一つは「イスラエルの聖なる方」という神様の呼び名なんです。「聖(カードーシュ)」とは区分されたという意味ですが、聖なる神によって聖別されたユダの国の財宝を異邦人であるバビロンの使者に見せるという行為は、すなわち、それを聖とされた神ご自身を冒涜する行為であったわけです。ヒゼキヤは聖なる神を冒涜するという恐ろしい罪を犯してしまったのです。

<結論>

ただ、イザヤから裁きの預言を告げられたヒゼキヤの反応は、なんとも微妙です。

『ヒゼキヤはイザヤに言った。「あなたが告げてくれた主のことばはありがたい。」彼は、自分が生きている間は平和と安定があるだろう、と思ったのである』(イザヤ39:8)。

後半はヒゼキヤのことばではなく、著者の解説ですけれども、ある注解書には、次のように書かれていました。

「ヒゼキヤ王は、自分は助かるからかまわないと考えたのではなく、神のさばきが後の時代に延ばされたことに対して感謝した表現」。

何か、随分とヒゼキヤの肩を持つと言うか、ヒゼキヤに甘い解釈のような気がしますが、皆さんはどのように感じられたでしょうか?私は、正直、自分は助かるからかまわない、というヒゼキヤの本音が出たようにも思うのですが、それと同時に、今回、このことばを読んで、「人間の責任」ということを思わされました。確かに、彼が犯した罪は、結果的に、イザヤの預言の通りに「バビロン捕囚」という国家的悲劇を招くことになりました。しかし、この彼のことばは、ある意味、本音と言うか、正直な気持ちを吐露したものだったのでは、と感じたんです。そして、それと同時に、確かに人間には、何百年後に起こることまで責任を持つことはできないな、ということも思わされました。今日の開会聖句はイエス様のことばです。

『ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります』(マタイ6:34)。

イエス様が言われたことは、あなたがたには明日のことは分からないんだから、そんな先のことまで心配しないで、とにかく今を刹那的に楽しめばいいんだ、ということではないですよね。そうではなくて、その日その日にできること、委ねられていることを、精一杯、行いなさい。そして、明日を守ってくださる神を信頼し、明日のことは全て神に委ねなさい、ということだと思います。あのルターは、

「たとえ明日、世界が滅亡しようとも、今日、私はリンゴの木を植える」

という有名なことばを残していますが、ヒゼキヤ王の犯した罪は罪として、今朝、神様は、「あなたは、今日という日をどのように生きるのですか?」と私たちに問いかけておられるように感じます。祈りましょう。

メッセージ内容のダウンロード(PDF108KB)

新聖歌

開会祈祷後:199番、メッセージ後:355番

聖書交読

詩編 36篇1~12節

2020年教会行事


9月3日(水)オリーブ・いきいき百歳体操
7月1日(水)から感染予防対策を講じつつ、再開しました。

#52-2726

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