主は私の羊飼い

メッセージ

<詩編 139篇1節~18節>
牧師:砂山 智 師

開会聖句

主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。

<詩篇 23篇1節>

メッセージ内容


<序論>  
・今日の「詩篇」139篇は、詩篇の中の王冠とも呼ばれ、造り主である神と人との人格的関係、そして親密さを、最も美しく歌い上げた傑作と呼ばれています。その内容は6節ずつに分けることができます。1~6節は神の全知、7~12節は神の遍在、13~18節は神の全能という、極めて哲学的・神学的な神様の属性(性質)を深く瞑想し、それを机上の理屈としてではなく、詩の形式で、人生の体験と信仰を通して描いてくれています。尚、19~24節は読んでいただきませんでしたが、この最後の6節は、これら神の崇高な属性を知った詩人の真剣な祈りの言葉のように思えます。

<本論>
1、全知の神

まず、1~6節で歌われている、神は私のすべてを知っておられる方であるということですが、それは、神は、私の思い(2節)、私の歩み(3節)、私のことば(4節)を、すべて知っておられるということです。これらは、抽象的な概念ではなく、まさに、私たちの存在の全領域に関係する実体と言えるものです。この詩人は、そのような神の不思議さに心を打たれ、

『そのような知識は私にとって あまりにも不思議 あまりにも高くて 及びもつきません』(詩篇139:6)

と告白しています。
今日は11月10日ですが、昨年の今日、私は結婚式の司式をさせていただきました。その時、

「Ⅰコリント」13章の、『愛は寛容であり~』

という「愛の賛歌」と呼ばれている箇所から話をさせてもらったんですが、この「寛容」と訳されているギリシア語には「忍耐強い」という意味もあります。それは、裏を返せば、私たち人間同士が愛し合うということは、それほど我慢や忍耐が欠かせないということであって、お互いの違いというのは、ちょっとやそっとの生易しいものではない。夫婦といっても、お互い他人同士、結局のところ分からない者同士であり、その、分からない者同士であるということが分かる、それが人間関係(つまり夫婦関係)において、第一に求められる知恵なのではないか、と話させていただきました。
ただ、ここでパウロが言っている「愛(アガペー)」というのは、私たち人間の愛ではないんですね。それは、神様の愛、イエス・キリストの愛なんです。つまり、人間同士の関係でも、何か自分が、自分の力で愛さなければならないということではなくて、そこには神の愛が土台になければだめなんですね。ですから、私たちは忘れてはならないと思うんです。それは、神が私たちのすべてを知っておられるということも、その前提には神の愛(アガペー)があるということを。神が何か疑いの眼差しで私のすべてを見張っておられて、常に私たちの一挙手一投足、心の中までも監視しておられるということではないんですね。そうではなく、私を愛するがゆえに、私の深いところまでを探り、知っていてくださるのだということです。

2、遍在の神

そして、そのような神は、遍在の神、つまり、どこにでも、あまねく存在する神でもあられます。8節にある『天』は高さの極みを、『よみ』は深さの極みを表しています。9節の『暁の翼』とは東の極み、『海の果て』とは西の極みを表していることばです。そして、最後の11節では、暗黒の極みが歌われています。

『たとえ私が 「おお闇よ 私をおおえ。私の周りの光よ 夜となれ」と言っても あなたにとっては 闇も暗くなく 夜は昼のように明るいのです。暗闇も光も同じことです』(詩編139:11,12)。

「ちいろば」の榎本保郎牧師は、今日の

詩篇の8節のみことば、『たとえ 私が天に上っても そこにあなたはおられ 私がよみに床を設けても そこにあなたはおられます』

を取り上げて、次のように書いておられました。
「イスラエルの民が、そうした神の姿、本質を深く知らされるようになるのは、バビロン捕囚以降である。彼らはエルサレムから、バビロンすなわち神の恵みの外と思われる所に連れていかれ、はじめてそこにも神がいられることを知り得たのである。「そこでもわたしは彼らの聖所となる」というエゼキエルの預言は、そうしたことを預言している。そして、それが最もはっきりと証しされたのが、陰府に下り三日目によみがえりたもうたというあのイエス・キリストの復活である。だから、私たちにとっては、陰府という世界はもはや存在しないのである」。
先週の伝道礼拝で皆さんと一緒に歌った讃美の中の一曲、「球根の中には」の歌詞にもありましたが、私たちにとって、「いのちの終わりは いのちの始め」なんです。

3、全能の神
そして、13~18節では全能の神が歌われています。先週の礼拝では、この天地万有、大宇宙を造られた父なる神についてお話ししましたが、この詩人は、小宇宙と呼ばれる私たち人間を造られた神の業について、実にユニークなことばで表現しています。

『あなたこそ 私の内臓を造り 母の胎の内で私を組み立てられた方です』(詩篇139:13)。

それゆえ、

『私は感謝します。あなたは私に奇しいことをなさって 恐ろしいほどです。私のたましいは それをよく知っています』(同139:14)。

先日、テレビで、人間の内臓、特に大腸の蠕動運動というものについての興味深い話が紹介されていました。食べた物は胃で消化され、そして最終的には小腸、大腸を
通って便になって排泄されるわけですが、そのために、大腸の蠕動運動は、なくてはならない大切な役割を果たしているそうです。そして、そのことに着目した大学の研究者たちが、「蠕動ポンプ」というものを発明して、液体のロケット燃料を固体化することにチャレンジしているそうなんです。その番組を見ながら、私は改めて、人間の体というのは本当によくできているんだなということを思わされたんですが、そのような人体組織の複雑さ、精巧さ、入念さ、そして絶妙な仕組みというのは、神が私たち人間を、どれほど大切なものとして造られたかということを示していると思います。最近、AI(人工知能)とか、また、新しい様々なものが生み出されているようですが、やっぱり、生命(いのち)の神秘さ・尊厳というのは、私たち人間の領域ではなく、神様の領域であると思うんですね。この詩人も、17節、18節で、次のように歌っています。

『神よ あなたの御思いを知るのは なんと難しいことでしょう。そのすべては なんと多いことでしょう。数えようとしても それは砂よりも数多いのです。私が目覚めるとき 私はなおも あなたとともにいます』(同139:17,18)。

<結論>

『主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません』(詩編23:1)。

私は、毎朝、目が覚めた時、「詩篇」23篇を暗唱するようにしているんですが、この1節前半と後半のことばの間には、省略されていることばがあると思います。それは、「それゆえ」ということばです。

『主は私の羊飼い。(それゆえ)、私は乏しいことはありません』。

イエス様は、ご自分のことを指して「良い牧者(羊飼い)」と言われました。

『わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます』(ヨハネ10:11)

『わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。ちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じです。また、わたしは羊たちのために自分のいのちを捨てます』(同10:14,15)。

昔、古本屋で偶然見つけた「旧約の風景」という本の中に、山本七平さんが面白いことを書いておられました。それは、羊や羊飼いとは余り縁のない私たち日本人には、羊というものはみな同じ顔に見えるが、牧羊の歴史の長いユダヤでは、羊飼いは、羊一匹一匹の顔がきちんと見分けられると。ですから、彼らは、たくさんの羊がいても、その中の一匹がいなくなれば、「あ、あの羊がいなくなった」とすぐに分かるのだそうです。
良い牧者であるイエス様も、私たち一人一人を、あなたの顔を、あなたのすべてをご存じの方です。そして、ご自分のいのちを捨ててまで、あなたを愛し抜いてくださいました。

『まことに 私のいのちの日の限り いつくしみと恵みが 私を追って来るでしょう。私はいつまでも 主の家に住まいます』(詩篇23:6)。

メッセージ内容のダウンロード(PDF107KB)

新聖歌

開会祈祷後:109番
メッセージ後:206番

聖書交読

伝道者の書 4章9~16節

2019年教会行事

11月13日(水)オリーブ・いきいき百歳体操
新バージョン(脳トレ)がスタートしています!

#51-2684


Comments are closed