千里キリスト教会50周年記念礼拝2 【未来へのビジョン】
メッセージ
<使徒の働き 2章14~21節、37~47節>
牧師:砂山 智 師
開会聖句
そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。
<使徒の働き 2章46~47節>
メッセージ内容
<序論>
・日本で最初にできたプロテスタント教会は、教会という呼び名ではありませんでした。日本で最初のプロテスタント教会は、明治5年2月2日に設立された「日本基督公会(横浜公会)」です。初代の教職者(仮牧師)はJ・H・バラで、その設立に関わったメンバーの中から、後に「横浜バンド」と呼ばれる大きな流れが生まれました。最初の教会は「教会」ではなく「公会」と呼ばれたのです。その背景には、「公会主義(いかなるキリスト教の教派にも属さない無教派という理念)」というものがあるそうです。ただ、その理念の話は別にして、私は、この「教(おしえる)会」ではなく、「公(おおやけの)会」という呼び名に、何か心惹かれるものを感じるのです。
今日は、先週に引き続き「50周年記念礼拝」です。そして、特に、【未来へのビジョンの礼拝】という副題をつけています。10年後、20年後、そして、30年後、私たち千里教会は、どのようになっているのでしょうか?今朝は、「なんで教会は教会っていうの?」と題して、皆さんと一緒に考えてみたいと思います。
<本論>
1、青年は幻を見、老人は夢を見る
「使徒の働き」第2章には、ペンテコステ(聖霊降臨)の出来事。そして、最初の教会であるエルサレム教会の誕生が記されています。13節には、
『だが、「彼らは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って嘲る者たちもいた』
とあります。『新しいぶどう酒』というのは、まだ十分に発酵していなくてアルコール分が弱い、甘味のあるぶどう酒のことです。つまり、この連中は、大の大人のくせに、弱いぶどう酒を飲んで酔っ払っているのか、と嘲っているのです。聖霊に満たされた弟子たちの様子が余りにも不思議で信じがたい光景であったので、周りの人々はそのように思ったのでしょう。そんな嘲りのことばを聞いて、ペテロが反論します。
『今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが思っているように酔っているのではありません。』(使徒2:15)。
これは単に、「俺たちは朝っぱらから酒なんか飲まないよ」と言っているのではありません。ユダヤ人は、「五旬節」のような祭りの日には、朝、会堂へ行って祈りをすることになっており、朝の十時以降でなければ決して飲食はしないという習慣がありました。つまり、ペテロは、私たちもユダヤ人であり、そのようなユダヤ人としての伝統や習慣を蔑ろにしているわけではない、と言ってるんですね。何しろ、彼が語りかけているのは、異邦人ではなく、エルサレム在住のユダヤ人たちですから。その上で、彼は、旧約聖書の「ヨエル書」にあるみことばを引用します。
『終わりの日』(同2:17)。
私たちクリスチャンにとっては、イエス・キリストによる新しい契約の時代、新約の時代こそ、終末の時代=「終わりの日」ということになります。ペテロは、今、聖霊が降ったのは、この「ヨエル書」の預言が成就したのだと、と言っているのです(但し、後半の19~21節の預言は、イエス様の再臨の時に成就すると解釈されています)。旧約の時代にも、もちろん聖霊なる神は働いておられました。ただ、それは、例えばモーセのように、特別な使命を帯びた人にのみ注がれるものでした。それが、新約の時代には、すべての神の民、つまり、すべてのクリスチャンに注がれるようになった、ということです。そして、
『あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。』(同2:17)
。『幻(ホラシス)』というのは、英語では「ビジョン」と訳されます。それは「洞察力・未来を見通す力・未来への展望」というような意味です。日本語で、「夢幻」というと、何か儚いものの代表というイメージですが、ここで言われている夢幻は、もっと明確なイメージです。そして、大切なことは、聖霊を受けた時、幻、夢を見るということです。パウロは、「Ⅰコリント」12章で、聖霊の賜物(カリスマ)について述べていますが、賜物というのは、神様が、聖霊によって、恵みとしてお与えになったものです。そして、それは、教会で奉仕をするために与えられたものです。ですから、この幻や夢も、私たちの個人的な幻、夢であるだけでなく、キリストの教会を建て上げてゆくために必要な賜物の一つである、と言えると思います。
2、悔い改めなさい
そして、ペテロは、22節以降で、つい先日(50日前)、十字架につけられたナザレ人イエスについて、やはり旧約のことばを引用しながらユダヤ人たちに語りかけます。そのクライマックスが、36節のことばです。
『ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」』(使徒2:36)。
この説教を聞いたユダヤ人たちは、『心を刺され』、ペテロたちに尋ねます。
『「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」』(同2:37)。
私は、本当に不思議に思うのですが、なぜ、彼らは、こんなに素直にペテロのことばを受け入れたのでしょうか?僅か50日前には、「イエスを十字架につけろ!」と叫んでいた人たちです。ペテロの説教が、特別に素晴らしかったからでしょうか。それもあったと思いますが、結局、その答えは、聖霊が働いてくださったから、という以外ありません。
『聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。』(Ⅰコリント12:3b)。
伝道の方法は変わっても、今の時代に合った方法はあるし、あきらめずにチャレンジし続けなければならないと思います。そして、何よりも、聖霊が働かれるように祈らなければならないと思います。
そして、38節。
『そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。』(同2:38)。
「悔い改め(メタノイア)」については、以前にもお話ししましたが、ある方が面白いことを書いておられました。「メタノイア」を反対から読むとどうなるか?「アイノタメ」ですね。つまり、「悔い改め」=「愛のため」。悔い改めというのは、愛のために行うものである。もちろん、これは単なる語呂合わせですが、上手いこと言うな、と思いました。
あるカトリックの神父は、この「メタノイア(悔い改め)」について、「Metanoia とは、本来、<視点の転換>を意味する言葉である。「判断の筋道」(nous)を「変える」(meta-)ということで、要するに「視点を移す」ことである。」と書いておられました。人は視点を移すことによって初めて、今まで見えなかったことも見えるようになります。新しい視点から自分自身を振り返り、そして、自分と人(対人関係)、自分と社会との関わり方も見つめ直す。そして、今日の箇所もそうですが、新約聖書は、「七十人訳ギリシア語旧約聖書」(紀元前3~1世紀にヘブル語旧約聖書から訳した)の影響を強く受けており、その「七十人訳」を調べると、Metanoia には「痛みを共感する」という意味が含まれているということが分かるのだそうです。つまり、我々が視点を移す先は、人の痛みを共感できるところ、抑圧され、小さくされた人々の立つところということになります。そのような人々の視座を借りて、そこからもう一度見直してみよう。そうすれば、イエス様が語られた福音が分かるようになる。だから、あなたも、低みに立って見直すことから始めてみませんかと、その方は書いておられました。
<結論>
今、ご紹介したのは、西成区の釜ヶ崎(あいりん地区)で路上生活者の人たちへの支援活動を続けておられる本田哲郎神父のことばです。本田神父は、釜ヶ崎で、低みに立って見直すことによって、「悔い改め(メタノイア)」を実践しておられるんですね。
今日の聖書箇所で、ペテロの話を聞いていたユダヤ人たちは、悔い改めというのは自分たちとは関係のないこと。悔い改めとはユダヤ人がするものではなく、汚れた異邦人たちがすべきものだと思っていました。しかし、実は、そうではなかった。ユダヤ人たちが、異邦人の立場に視点を移した時、今までと全く違う世界が見えてきたのです。私たちも、未来へのビジョンを語る前に、まず悔い改めること、今の場所から視点を移すことが必要ではないかと思います。
最後に、本日の開会聖句をご覧ください。
『そして、毎日、心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。』(使徒2:46,47)。
私は、今回の説教、「なんで教会は教会っていうの?」ということについて考えていた時に、あるみことばが頭に浮かんできました。それは、「ヨハネの福音書」1章14節のみことばです。皆さんも、よくご存じかと思います。
『ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。』(ヨハネ1:14a)。
これを、神学の世界では「受肉」と言います。子なる神様が、イエス・キリストという歴史的人間性を取ってくださった、私たちと同じ肉体を持った人間となってくださった、ということです。そのことによって、私たちにも神様の愛が分かりました。それと同じように、聖書のことばが、単に教えとして語られているだけなら、何も伝わっていかないのではないか。教会が、その呼び名のように、「教える会」でしかなかったなら、それは、やっぱり、ちょっと違うんじゃないか、と。少し変な言い方になるかもしれませんが、みことばが、単なる教えではなく、私たちの内に受肉していかなければ、何も伝えることはできないのではないか、と。確かに、教会は「仲良しクラブ」ではありません。しかし、みことばが、教会に集う私たちの内に生きて働いていなければ、そのことが証しされなければ、本当の意味で、みことばを伝えることにはならない、と思うのです。みことばには、いのちがあります。そのいのちが光輝くのは、ここにおられる一人一人の中においてです。教団の「よきおとずれ」の先月号にも書いてくださいましたが、「教会」が、単なる「教える会」であれば、牧師中心でもいいと思います。しかし、そうではなくて、みことばのいのちが、本当に光り輝くためには、ここにおられる一人一人が主役の教会でなければならないと思います。毎日、心を一つにして宮に集まることはできないかもしれませんが、今、千里教会にできることから始めてゆきましょう。
新聖歌
開会祈祷後:7番、
メッセージ後:146番
聖書交読
詩篇 115篇1~18節
特別讃美
H.T姉&M.A姉
「主がわたしの手を(新聖歌474番)」、
「歌いつつ歩まん(新聖歌325番)
2019年教会行事
2月13日(水)オリーブ・いきいき百歳体操
#51-2646
One comment to this article
mb-senri_web
on 2019年2月10日 at 1:17 AM -
本日のメッセージで登場する、本田哲郎神父の釜ヶ崎での働きを紹介したHPのリンクを掲載しておきます。
「釜ヶ崎で福音を生きる」
http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-684.htm
コンテンツのオリジナルは、NHK教育TV「こころの時代」平成27年7月5日放送