簡単で、難しいこと

メッセージ

<列王記第二 5章1~14節>
牧師:砂山 智 師

開会聖句

すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。

<ローマ人への手紙 3章22節>

メッセージ内容

<序論>  
・「Ⅱ列王記」の前半の1~10章は、預言者エリシャが活躍した時代です。エリシャもまた、師匠のエリヤと同じように、北イスラエルで崇拝されていたバアル宗教(カナン土着の豊穣の神=ご利益信仰)と戦った預言者です。その意味では、今日のナアマンの物語は、「スピンオフ(番外編)」と言えるかもしれませんが、エリシャが行った奇跡の中でも、とりわけ有名な物語です。

<本論>
1、ナアマンの問題
『アラム』というのは、現在の「シリア」のことです。この時代には、隣国の北イスラエルと常に緊張状態にあり、戦うこともありました。

『アラムの王の軍の長ナアマンは、その主君に重んじられ、尊敬されていた。それは、主が以前に、彼を通してアラムに勝利を与えられたからであった。』(Ⅱ列王5:1a)。

ナアマンは、イスラエルにとっては厄介な存在、憎むべき敵でしたが、アラムにとっては一番頼りになる人物でした。そして、驚くべきことが書かれています。それは、彼は異邦人であったにもかかわらず『主が以前に、彼を通してアラムに勝利を与えられたからであった』。これは、ナアマン自身も気づいていなかったことかもしれませんが、彼は主に選ばれた器であったということです。旧約聖書は、選ばれた民族であるイスラエルの歴史というイメージがありますが、神さまの選びは、決してイスラエルだけではなかったのです(「ルツ記」なども同じ)。しかし、

『この人は勇士であったが、ツァラアト(重い皮膚病)に冒されていた。』(同5:1b)。

一見、完璧なように見える将軍ナアマン。主君に重んじられ、尊敬され、そして、何よりも、主の選びの器であったナアマン。しかし、そんな彼にも、大きな問題があったのです。聖書の時代のイスラエルにおいては、ツァラアトに冒された人は、病気自体の苦しみだけでなく、「私は汚れている」と叫んで歩かなければならないという、厳しい差別も受けていました(「レビ記」13章)。ナアマンの場合は、主君からも尊敬されていた将軍で、アラム人でしたので、少し事情は違っていたかもしれませんが、それでも、この病気が、彼にとって大きな問題であり、苦しみであったことは間違いないと思います。そして、ナアマンが、どれほど素晴らしい将軍であったとしても、この問題だけはどうすることもできなかった。王を始めとして、彼の周りにいた身分の高い人々もです。このナアマンの病気は、私たち人間の罪というものを、象徴的に表しているように思えます。これは、あくまでも「象徴的に・比喩的に」ということで、病気の原因が罪あるということでは決してありません。ただ、聖書は、人間的にどんなに素晴らしい人であったとしても、罪は存在していると証言しています。そして、その罪を解決することは、自分自身も含めて誰にもできないのです。けれども、本当に思わぬところから「福音(良い知らせ)」が飛び込んできます。

2、大逆転の選び

『アラムはかつて略奪に出たとき、イスラエルの地から一人の若い娘を捕らえて来ていた。彼女はナアマンの妻に仕えていた。彼女は女主人に言った。「もし、ご主人様がサマリアにいる預言者のところに行かれたら、きっと、その方がご主人様のツァラアトを治してくださるでしょう。」そこで、ナアマンはその主君のところに行き、イスラエルの地から来た娘がこれこれのことを言いました、と告げた。』(同5:2~4)。

「一人の若い娘」。聖書には、その名前すら記されていません。しかも、彼女は捕虜として連れて来られた奴隷でした。しかし、この若い奴隷の娘だけが、ナアマンの問題を解決する方法を知っていたのです。
聖書を注意深く見てゆくと、このような不思議な例(神さまの選び)を数多く見出すことができます。例えば、「創世記」41章にあるヨセフの物語。あの偉大なエジプト王ファラオの見た不吉な夢を解き明かして、エジプトを飢饉から救ったのは、当時、獄中にいた無名のヨセフでした。また、ダビデとゴリアテの物語もそうです(「Ⅰサムエル」17章)。誰からも重要人物とは見られていなかった小さな羊飼いの少年ダビデが、あの大男ゴリアテを倒すのです。神さまの選びは、人間の常識をはるかに超えた、言わば「大逆転」の選びです。
新約聖書の「Ⅰコリント」に、次のようなパウロのことばがあります。

『兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。しかし、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。』(Ⅰコリント1:26~31)。

<結論>
さて、ナアマンは、自分の主君からもらった手紙とたくさんの貢物を携えて、まず、イスラエルの王のところにやって来ます。イスラエルの王は、手紙を読むと、自分の服を引き裂いて、

『「私は殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか。この人はこの男を送って、ツァラアトを治せと言う。しかし、考えてみよ。彼は私に言いがかりをつけようとしているのだ。」』(Ⅱ列5:7)

と言ったと記されています。
彼は、アラムの王が言いがかりをつけようとしていると思って、恐れたんですね。そんなイスラエルの王に、エリシャから助け舟が来ます(同5:8)。そして、ナアマンは、エリシャのもとにやって来るのですが、エリシャは、自分は全く顔も見せずに、使いの者に、

「ヨルダン川へ行って七回あなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだは元どおりになって、きよくなります。」(同5:10)

と言わせるのです。11節と12節には、その時のナアマンの反応が記されています。彼にしてみれば、「この俺が、わざわざアラムから出向いて、たくさんの貢物や王からの手紙まで添えて頼んでいるというのに、なんという無礼な奴だ!」というような感じですね。プライドを傷つけられ、カンカンに怒っているナアマンの姿が目に浮かぶようです。しかし、さすがに歴戦の勇士ナアマンです。その直後に、しもべたちの忠告に対して素直に耳を傾けています。周りが「イエスマン」ばかりだと、こうはいかないですよね。
そして、ナアマンは、最終的には、エリシャの言った通りに、ヨルダン川に七回身を浸すんです。その結果、重い皮膚病に犯された彼のからだは、幼子のからだのようになり、きよくされた、と聖書は記しています。
考えてみれば、ナアマンが最初、ヨルダン川に入ることを拒んだのは、しもべたちのことばにあるように、それが余りにも簡単なことで、馬鹿みたいに思えることだったからでした。しかし、その一見簡単なこと、馬鹿みたいに思えることの中に、本当の救いが隠されていたのです。これは、ある意味で、イエスさまの福音に似ているのではないかと思わされています(福音の型)。

『すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。』(ローマ3:22)。

【新改訳聖書2017版】には、『イエス・キリストを信じることによって』ということばに※印がついていて、脚注に、別訳「イエス・キリストの真実によって」と書かれています(ギリシア語「ピステオース・イエスース・クリストゥ」)。確かに、イエスさまの真実があったからこそ、私たちは

『価なしに義と認められ』(同3:24b)

たのです。これこそ、大逆転の福音と言えるのではないでしょうか。そして、そのことを信じるだけで救われるというのは、ある意味、簡単なことかもしれません。しかし、もう一つ、忘れてはならないことがあります。それは、この福音は、神のひとり子であるイエスさまの十字架という、尊い代価のゆえに与えられたということです。その代価の重さを知ることは、私たちにとって、本当に難しいことでもあります。

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新聖歌

メッセージ後:231番

特別讃美

オリーブ讃美チーム(いきいき体操参加の皆さんです)
「花も」
「明日を守られるイエスさま」
オリーブ讃美チーム
心温まる素敵な讃美でした。次回の讃美も楽しみです!

聖書交読

箴言 15章14~22節

2018年教会行事

8月8日(水) オリーブいきいき百歳体操(10時~11時)

#50-2618

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