メッセージ
<ヤコブの手紙 2章14~26節>
牧師:徳本 篤 師
開会聖句
だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
<マタイの福音書 7章24節>
メッセージ内容
序文)
小学校国語教科書を研究している鳴門教育大学の茂木俊伸教授は研究論文の中で、「ある言葉の辞書的な意味を理解していたとしても、その文脈に合わせた適切な解釈ができなければ、『知っているはずなのに実は理解できていない』ということばのつまずきが起こっている」と説明されていました。
ここで言われている「知っているはずなのに実は理解できていない」ということばのつまずきは、私たちの信仰生活においても起きているのではないだろうか。と、つい納得させられました。
本論)
ヤコブは今日の聖書個所で聖書の教師たちの中に「知っているはずなのに実は理解できていない」という信仰と知恵のつまずきがあることを指摘しています。
第一に、自分たちの言動の異常さを理解していない(9節~12節に注目してください)
- 賛美とのろいが同じ口から出て来る
- 甘い水と苦い水を同じ泉からわき上がる
- いちじくの木がオリーブの実をならせ、ぶどうの木がいちじくの実をならせる
- 塩水が甘い水を出す
第二に、自分たちの責任の大きさを理解していない(3節~5節に注目してください)
- くつわによって馬のからだ全体を引き回すことができる
- 小さなかじによって大きな船を思い通りの所に運んで行く
- 小さい火によって大きい森が焼き尽くされる
第三に、自分たちのつまずきに対する神のさばきを理解していない(1節を注目してください)
教師は、ことばの失敗による格別きびしいさばきを受けると書かれています。
適用)
ヤコブがこのように厳しい手紙を書いた目的は何だったのでしょうか。額面通りに受け取れば、今後人前で語る人も、教師になる人は誰もいなくなってしまうのではないかと心配になります。
私たちはヤコブと同じように人が語ることばについて神のさばきがあることを教えられたイエス様のみことばを手掛かりに、この手紙の本来の意味をさらに探ってみましょう。
「人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。」(マタイ12章32節)
イエス様の教えのポイントは「赦されることば」と「赦されないことば」とを明確に分けておられることです。
前半部分に「赦されることば」が書かれています。驚くことに「人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦される」と説明されています。十字架を前にしてイエス様はご自分には人の罪を赦す権威があることを語られました。ですからイエス様を真の救い主メシヤであることを理解できなかった人々がイエス様について語った様々な無礼な言葉も赦されることを宣言しておられます。
もし、ことばで失敗することを恐れ、人前で語ることをやめ、あるいは語ることばに慎重になり過ぎる人がいたなら、それはヤコブの教えの真の意味を履き違えているのかもしれません。
イエス様は私たちがその日の虫の居所が悪くてかんしゃくを起こしたり、口喧嘩になったり、配慮が足らなくて相手を傷つけたことを取り上げて最後の裁判の日にさばくようなお方ではありません。
キリスト者のマナーとしてそれは当然相手に謝るべきです。相手の心があなたから離れていく前に謝るべきかもしれません。互いに赦し合うために信仰と知恵を働かせて努力すべきかもしれません。私たちはそのようにしながら一つずつ大人の付き合い方を身に着けてきました。いつまでもすねていたり、相手とは口も利かないというのはまだ大人になっていない証拠です。
イエス様が決して赦されないと断言されたのは、聖霊に逆らうことです。明らかに聖霊がその人の心にみことばを示して語りかけておられる時に、それをあからさまに拒絶し、それに逆らうことばを発する人のことです。その人に対する神のさばきは、罪の赦しと、永遠の救いを失うことです。彼自身でそれを拒否したのです。
結論と応答)
最後にイエス様が語られた
「木のよしあしはその実によって知られる」(マタイ12章33節)
というみことばにも注目しましょう。このたとえでは、木はその人自身をあらわし、実はその人が口にすることばのことです。
私の知るある教会の古くからの信者の人で「教会は何を言っても許される所や」と誇らしげに語っている人がいました。確かに教会は一般社会とは違って柔和な人や寛容な人が多くおられると思います。しかし、その人が語っていた「何を言っても許される」という発言については2つの点で間違った理解をされています。
第一に、イエス様はそれをどのようにご覧になるでしょうか。ご自分のいのちを犠牲にして救い出し、神の子どもとされたあかしとして聖霊がその人の内に住んでくださいました。真面目に働いた農夫が自分の畑に蒔いた種に豊かな実りを期待するように、イエス様も私たちが聖霊の実を実らせることを期待しておられるのは確かです。「教会は何を言っても許される所」ではなく、「聖霊の実を実らせる神の畑」です。このような思い違いは早く修正されないと、望ましくない結果をわが身に招くことになります。
第二に、神の教会はどのように観るでしょうか。教会の人々は黙認できる許容範囲内でその人を許していると考えてください。神の教会は愛と信頼で形造られる交わりの共同体です。第一コリント13章に書かれている愛のリストがそのことを具体的に説明しています。そこには礼儀に反する態度・暴言・批判のことばがいつでも赦されるという根拠は見当たりません。「教会では何を言っても許される」と考えている人は、自分が交わりの中で尊敬と信頼を失っている事実を早く気づかなければなりません。
「知っているはずなのに実は理解できていない」という「ことばのつまずき」「信仰と知恵のつまずき」が私たちの間に起きないように互いに気を付け、ともに励まし合いましょう。
新聖歌
開会祈祷後:137番、メッセージ前:347番、メッセージ後:444番
聖書交読
詩篇 24篇1~10節
お知らせ
★本日の礼拝後に聖歌隊の練習を行います。午後から9月度運営委員会が開催されます。
★9月10日にF+Y.N姉から献金が届きました。入院中の房子姉の回復のために祈りましょう。
★S.T姉は右手骨折手術を受けられて入院中です。回復のために祈りましょう。
★入院中のH.Yの回復のために祈りましょう。
2016年度後半の主な教会行事
09月27日-30日 日本伝道会議(神戸市)
10月15日(土) オータムフェスタ
10月23日(日) MB教団講壇交換
11月20日(日) 讃美礼拝(マキ&リリー)※お知らせを8月30日に掲載しました!!
12月25日(日) クリスマス礼拝/祝会
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